JINさんの陽蜂農遠日記

2021/03/08(月)18:13

丸亀城

国内旅行(1709)

丸亀城(まるがめじょう)は讃岐国、現在の香川県丸亀市にあった日本の城である。別名、亀山城、蓬莱城。 丸亀市街地の南部に位置する亀山(標高66メートル)を利用し、縄張りはほぼ四角形で亀山の廻りを堀(内堀)で囲む、輪郭式の平山城。築城は1597年生駒親正、一正父子によって着手された。1615年の一国一城令で廃城となるものの、生駒騒動の後、領主となった山崎氏が再建。その山崎氏が絶家の後やってきた京極氏により天守、大手門が造られ、現在に残ると。 丸亀城 案内図。 大手二の門。江戸時代の初めに建てられた、丸亀城の表門で高麗門とも。高麗門とは正面左右の2本の本柱に切妻(きりづま)の屋根をかけ、これと直角に控柱を本柱の背後に立てて切妻屋根をかけたもの。城郭の外門などに多く見られるのだ。大手二の門(左)と一の門(右)との間は、南北18m、東西20mの大手桝形が。中央山頂には日本一高い石垣に天守が鎮座。 (国指定重要文化財)。内濠。櫓台もあり、その先には白い塀も見えた。大手一の門。大手二の門から見た桝形と丸亀城大手一の門(太鼓門)(国指定重要文化財)。1970(寛文10)年に完成。生駒氏・山崎氏の時代に南側にあった城の正面は、京極氏の代(治世)になり、現在地の北側を正面とし大手一の門・二の門を南から移したと。やはり瀬戸内海に面した北側に城の虎口である大手門があるのが当然か。入母屋造の本瓦葺で、棟の両側に鬼瓦と事の際に水を噴き出して火を消すという伝説があり、鬼瓦同様守り神とされた「しゃちほこ瓦」がそびえてたっていた。 帰厚の門。大正15年に国の所有していた丸亀城のある「亀山公園」を丸亀市に払い下げてもらう時に、払い下げの費用を寄付したのが「式村茂さん」で、この行いを称えてこの碑が建てられたと。「帰厚」というのは、論語の中の「終りを慎み、遠きを追えば、民徳厚きに帰す」という記述から、碑の名前になったのだと。見返り坂を登っていくと見事な石垣が。石垣は、緩やかであるが荒々しい野面積みと端整な算木積みの土台から、頂は垂直になるよう独特の反りを持たせる「扇の勾配」となっている。山麓から山頂まで4重に重ねられ、総高60メートルの石垣は日本一高く、三の丸石垣だけで一番高い部分は22メートル。  月見櫓からの瀬戸内海の光景。 遠くに瀬戸大橋が。 二ノ丸石垣 瀬戸内海の島。 天守。全国に現存する『木造天守十二城』の一つ。国重要文化財、3層3階、西暦660年の建設、日本一小さな天守とのこと。天守の屋根の鯱。 ここからの眺めが抜群!北には丸亀の市街が広がって、その先には瀬戸の青い海に緑の島々。 唐破風この丸亀城天守閣の向唐破風の場合、特に出窓があるわけではないので、ただの装飾で付けたものであることが解ったのであった。天守側から見た大手一の門。楼上に太鼓が置かれ城下に時刻を知らせたことから太鼓門ともいわれると。大手二の門(内側)。 高麗門であることが理解できた。振り返って大手一の門(内側)。 丸亀市の新しいマスコットキャラクター「うちっ娘」の着ぐるみが登場。市花のサツキをあしらった赤い振り袖姿で国の伝統的工芸品のひとつ「丸亀うちわ」をモチーフにした女の子。そして今回の旅行で最後の城・高松城に向かったのであった。

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