7426889 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

JINさんの陽蜂農遠日記

JINさんの陽蜂農遠日記

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Profile

jinsan0716

jinsan0716

Keyword Search

▼キーワード検索

Category

Freepage List

Comments

Favorite Blog

岡山駅構内と山陽本… New! 隠居人はせじぃさん

東海道まち歩き (2)… New! オジン0523さん

【100円ショップのピ… Gママさん

バイクのシートが裂… noahnoahnoahさん

エコハウスにようこそ ecologicianさん

Headline News

Archives

Calendar

2019.02.04
XML
そして今日、2月4日(月)は『立春(りっしゅん)』。
立春は寒さが1番ピークの時期で、 立春を超えると寒さが段々和らいで来るのです。
日照時間が1番短く、 南中高度(1日で太陽が最も高い位置にある時の地平線からの角度)が
最も低いのは、 冬至(12月22日頃)。
しかし、太陽からの光で地球が温まるのには約1ヶ月程の時差があるのだと。
そのため、一年で一番寒くなるのは冬至(昨年12月22日)の約1か月後の、
大寒(1月20日)~立春(2月4日)なのです。
昨年の熱海・糸川桜に戯れていたメジロの写真に『立春』と入れてみました。



毎年だいたい2月4日頃が立春となります。
頃というのは2月4日に固定されているわけではなく、2月3日や2月5日の時もあります。
立春というのは、二十四節気の一つ。
二十四節気というのは、1年(約365日)を24等分にして、季節の名称が付けられたもの。
24個あるうちの一番目で、冬至と春分のちょうど中間が「立春」と定められています。
立春は、その日一日だけが立春と呼ばれることもありますが、2月4日頃次の二十四節気の
「雨水」(2月18日頃)の前日までの期間を立春と呼ぶこともあります。
また、八十八夜、二百十日、二百二十日と聞いたことがあると思いますが、これらの日にちは
起算日の第一日目として立春から数えての日数となっています。
立春の文字を見ると、春が始まるようなイメージですが、立春から立夏(5月5日頃)の
前日までが、春となります。
立春を過ぎると暦の上では春。少し日が長くなり、季節が動いていることを感じますが、
寒さはもうしばらく続くのです。
今年はインフルエンザが猛威を振るっています。
1月31日~2月1日は、南岸低気圧の影響で関東地方などでも雨や雪となりました。
ただ、お湿りは限定的で、昨日正午の東京都心の湿度は38%。
関東甲信地方を中心に空気のカラカラが復活しているのだと。
この先も関東甲信地方を中心に晴れる日が多く、空気の乾燥が続きそうです。
手洗いや人混みでのマスクの着用、十分な睡眠をとるなど、インフルエンザ対策が欠かせません。
そしてバランスのよい 食事を心がけ寒さを乗り切りましょう。 


             【http://chugokugo-script.net/koyomi/risshun.html】より

『旧東海道を歩く』ブログ 目次

そして今日も『旧東海道を歩く(大磯~国府津)』のブログアップを続けます。
二宮町・吾妻山を右手に見ながら国府津方面に向かって進む。



陽射しも強く12月とは思えない天気の中を歩く。



日本橋まで(から)74Km。



吾妻山入口交差点から吾妻山を見る。



旧東海道はこの先右手を。



『旧東海道の名残り』、『約100m先左折 梅沢海岸』と書かれた標柱。



ここが吾妻山山頂近くにある「吾妻神社」の参道。
この「吾妻神社」の創建年代等については不詳であるが、言い伝えでは日本武尊が東征の折り
浦賀水道で暴風にあいそれをおさめるためその妃である弟橘姫命が入水し、
その後弟橘姫命の櫛が流れ着き、それを祀ったのがこの神社とされていると。
奥には一の石鳥居が。



宮戸醤油漬物醸造と書かれた銘板のある入口門の前には大きな釜が。
ここ二宮町山西のヤマニ醤油は、この町に1軒だけあった醤油醸造所。
天保13年(1842年)に二宮で創業し残念ながら2005年に閉じてしまったとのことだが、
町内には峯尾醤油という老舗蔵も存在していたと。
江戸時代以降の二宮は、ちょっとした"醤油どころ"だったようだ。



坂を上って行く。



『​真言宗 梅沢山 藤巻寺 等覺院​』が右手に。
旧東海道、梅澤川に架かっていた梅澤橋跡の袂から見上げる坂を登ったところに
梅沢山等覚院、別名藤巻寺という古義真言宗の寺が。
本尊は不動明王および両脇侍像で、その他にも多数の仏像が置かれていた。



『本堂』。



宗派は古義真言宗。小田原市国府津町宝金剛寺の末寺。
本尊、不動明王および両脇侍像。



『六地蔵』。



『水子地蔵尊』。



『鐘楼』は二宮町重要文化財。
寛永八年(1631)の銘があり、町内に現存する最古の鐘楼であると。



『正徳地蔵尊』。



『無縁墓地』。



『観音堂』



推定樹齢約400年を超えるといわれる『白藤』。



元和九年(1623)、徳川3代将軍家光が上洛した際、駕籠を止めて白藤を見物したとの
言い伝えが残ると。
また、寺の名前に関しては、寛文(1661~72)の頃、仁和寺の宮が、関東下向の時、
藤の木の根元を見て、『藤巻寺』の別号を与えたと伝えられていると。



南無薬師如来の赤い幟。



『相模新西国三十三ヶ所観音霊場 第壱番藤巻寺』



国道1号線と交差する近くに道祖神の古い石碑があった。
『越地の辻の地神塔』。1802(享和2)年の物と。
「金目の煮付」の赤い旗も存在感を。



旧東海道と国道1号線の合流点を振り返る。
この後にふれるオジサンが、ここでも旧東海道ではなく現国道1号線を歩いているのが
写真に写っていたのであった。



暫くすると、白装束、杖、編笠を被り足早に抜いて行く旧東海道巡りのオジサンの姿が。
リュックには『東海道五十三次 徒歩の旅 江戸(日本橋)⇒京都(三条大橋)』と書かれた
プレートを取り付け、気合が入っているのであった。



日本橋まで(から)75Km。
遥か前方に、先程の白装束の男性の姿が。



『押切坂上』のバス停。



川匂神社交差点に架かる歩道橋が前方に。



川匂神社交差点を右折したところにあったのが『茶屋薬師堂』。
かつては川勾神社の本地仏であったが、明治時代の神が仏分離令により別管理となったと。



木造の『薬師如来坐像 (もくぞうやくしにょらいざぞう)』が安置されていると。
像高は261.5センチとかなり大きく、寄木造り・彫眼・漆箔で、江戸時代の作で
二宮町指定 重要有形文化財。
毎月1日と12日にはお年寄りたちが薬師堂に集まり、念仏を唱えていると。



『三界萬霊塔』。
三界とは我々が生まれかわり死にかわりするこの世界のことで、欲界、色界、無色界の
3種の世界があり、欲界というのは、食欲、性欲、睡眠欲などの欲望の世界で、
色界は欲望が無くなった世界、無色界は形のあるものからはなれた純粋な世界を指すと。
萬霊とは、欲界、色界、無色界などのそれらすべてを指すのだと。
よって、三界萬霊塔とは、この世のあらゆる生命あるものの霊を宿らせ、供養することが目的に
建立され、我が家の先祖だけでなく、すべての精霊に供養することの大切さを教えるものだと。



多くの石仏も。



そして歩道橋から前方の押切坂を見ると先ほどの白装束のオジサンの姿が。
実はこの歩道橋の袂から旧東海道は脇道となっているのだが、そのまま
ここでも現在の国道1号線を歩いていたのであった。
装束こそは素晴らしいが、甚だ予習不足のオジサンなのであった。
リュックの「東海道五十三次 徒歩の旅」のプレートは「現東海道1号線 徒歩の旅」に
変更した方が良さそうなのであったが・・・・。



『史跡 東海道一里塚の跡 江戸より十八里』。



「ここ二宮の一里塚は、江戸日本橋から18番目の一里塚で、大磯宿と小田原宿の中間に
位置しています。塚は街道を挟んで両側に築かれ、北側の塚は高さ約3.6m、上には欅
(けやき)が植えられ、南側の塚は高さ約3.3m、上には榎(えのき)が植えられていました。
周辺には、旅人目当ての茶屋や商店が軒を並べ、「梅沢の立場」と呼ばれて、
大変賑わっていました。」



私はしっかりと旧東海道を押切坂に向かって歩く。



『松屋本陣の跡』。
『松屋本陣の跡』は完全に一般住居の庭に立っていたのであった。



「江戸幕府の交通政策によって東海道が整備されたことや、参勤交代制などにより、
江戸~上方間を往来する人々は増え、旅人の宿泊所、休憩所も街道の随所に設けられました。
このあたりは、大磯宿と小田原宿の中間に位置し、大磯宿~小田原宿の距離が16キロメートルと
長い上、押切坂、酒匂川を手前に控えていることから、 間の宿(あいのしゅく)として休憩所が
設けられ、大友屋・蔦屋・釜成屋など多くの茶屋や商店が軒を並べ、「梅沢の立場」と呼ばれて、
大変賑わっていました。
その中心的存在となっていたのが「松屋本陣」であり、参勤交代の諸大名・宮家・幕府役人など、
特権階級にあたる人達の休憩所に指定されていました。
「松屋」であった和田家には、本陣を利用した人々の記録である「御休帳」が保存されていて、
二宮町指定重要文化財になっています。」



そして旧東海道『押切坂』の下りが始まる。



今は住宅街の中の旧東海道。



旧押切坂の途中の右手には可愛らしい道祖神が祀られていた。



そして旧&新押切坂の合流点に。



合流場所から振り返る。右側が旧東海道。



中村川(なかむらがわ)に架かる押切橋が前方に。
押切橋は幾度となく架け直された過去があると。
流失と架け替えが繰り返された理由として、押切の名が示す通りこの地域は
大水(洪水)の常襲地帯で、堤を押し破ることからこの名がつけられたのだとも。



『押切橋』と書かれた銘板が欄干手摺に。
中村川は、神奈川県足柄上郡中井町および小田原市、中郡二宮町を流れ相模湾に注ぐ二級河川。
中村川水系の本流である。延長は10.3km(二級河川部分は9.00km)、流域面積は29.47km2。
河口付近では流域の字名に由来して押切川とも呼ばれていると。



左手には西湘バイパスとその先に相模湾が。



川には多くの鯉が大きな口を開けて。



そして小田原市に入る。



小田原市のマンホール蓋。
【​http://sky.geocities.jp/usagigasi1j/kanagawa/odawara/odawara.html​】には
「歌川広重の浮世絵、東海道五十三次のうち「小田原・酒匂川」をモチーフにしたマンホール蓋です。
江戸時代の酒匂川には橋がなく、特に増水期は、旅人にとって大変な難所でした。
右下のふんどし姿の人影は、当時、旅人や荷物を担いで渡った「人足」と呼ばれる労働者たち。
また、背景にあるのは、酒匂川から望む「小田原城」と「箱根連山」、そしてその奥にそびえる
「霊峰富士」です。 小田原市は昭和34年に下水道整備に着手し、現在は酒匂川流域の市町と
連携して流域下水道事業を進めています。
「酒匂川から見た雄大な風景を歴史とともに後世に残したい」。
そんな想いが詰まったデザイン蓋です」と。



                            ・・・​その5​・・・に戻る。
                  
                   ・・・​つづく​・・・






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2020.04.28 14:19:55
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.