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カテゴリ:高野街道記補足
「平野郷」は、もと「杭全郷」と呼ばれ、この地方の豪族杭全長彦の所領でしたが、平安時代の初期征夷大将軍上田村麻呂の第二子広野麿が嵯峨天皇よりこのちを賜わって開発領主となりました。地名の由来は広野麿の邸跡のあった地が広野と呼ばれたのが転訛して平野となり「平野郷」となり、更に「平野荘」と呼ばれるに至りました。 のち藤原氏の荘園となり、宇治平等院領となったが、当時坂上家宗家は平野殿と呼ばれ、その分流が七町の惣年寄りとして当地を支配しました。 これらが平野七名家といわれる末吉・則光(三上)・土橋・成安・利則(西村)・辻葩・西脇家で、坂上家を中心に杭全神社の神座を構成していました。 戦国時代には、堺と並ぶ自由都市として栄え、集落のまわりに堀を巡らせた環濠都市で、杭全神社境内には「平野環濠跡」の碑が立っています。 この集落には出入口が十三ヶ所設けられ、木戸口には門と共に地蔵堂・遠見櫓・番小屋が設けられ、各地への街道に通じていました。 しかし、豊臣秀吉いより大坂城下町整備の一環として当時の富商は天王寺に移転させられ、濠も埋めさせられるなどされたため衰退に向い、更に大坂の陣のとき、豊臣・徳川両軍の軍事拠点となり、ほとんど消失してしまいました。 戦後、徳川家康は末吉勘兵衛の子吉安に「町割」を命じ、町は碁盤目状に区画され、勘兵衛・吉安・孫の長方は代官を命ぜられ、末吉家は慶長九年(1604)頃から海外渡航の禁止令の出る寛永十二年(1635)まで朱印船末吉船で呂宋(フィリピン)・シャム(タイ)・トンキン(ベトナム)などへ進出、活躍しました。 なお、江戸時代には元禄七年(1694)を境に前期は幕府領、後期は大名領となり、正徳三年(1713)古河藩*主本多忠良に給与、以後明治二年(1869)版籍奉還までの156年間は松平・土井と大名は替わっても古河藩でした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.10.04 08:13:23
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