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テーマ:世界遺産紀行(1090)
カテゴリ:マレーシア
なんと驚きっ!ヨーロッパからアジアにキリスト教が伝わった時代の丘上の聖母マリア「セント・ポール教会」は、春分と秋分の日に太陽が登り・・・東から西へ太陽が奇跡のようにマラッカ海峡に沈む!そんな演出が施されておりました。それは・・・この絶景の丘で1年に2回だけ起こる奇跡であります♪
『マレーシア旅日記』・・・セント・ポール教会の謎2つ セント・ポール教会の中 左右の壁には、墓石が立てかけて ![]() これです ![]() ![]() これには、深い訳があります。 マラッカ王朝を駆逐し、占領した ポルトガル軍によって1521年に建立され 最初「ノサ・センホーラ・丘上の聖母マリア」と呼ばれた 小さな礼拝堂でした。 後に「セント・ポール教会」と呼ばれ 、英国の弾薬倉庫にまでなった 今では、壁面のみで・・・屋根も ![]() なぜ キチンと ![]() ![]() ★謎1★その答えは・・・・とても深いです! 西欧の列強各国が、アフリカ大陸の南端「喜望峰」(ケープタウン)を廻って、 ![]() 喜望峰 アジアへ向かう航路を確立する16世紀まで、マラッカを含む東南アジアの国には、 インドから伝来したヒンドゥー教・仏教・アラブからイスラム教が布教されてました。 キリスト教のアジア伝来は、16世紀の大航海時代にはじまりました。 この時期は、 ちょうどキリスト教が、ルターの宗教革命によりローマ・カソリック教に異を唱え、 偶像崇拝廃止「聖書」のみを信じるプロテスタント派の教えが ヨーロッパ各地に広まった時期と重なっています。 カソリック派は、プロテスタント派の拡大を阻みむため 新天地をアジアに求めたのです。 その任務を担ったのがイグナチオ・ロヨラ氏が率いる「イエズス会」です。 私たちの教科書に出て来た ![]() 「フランシスコ・ザビエル」さんは イエズス会の所属で、極東アジア地域の責任者として 1545年~1552年 定期的にこの教会を訪れ、布教活動を行っていました。 マラッカでは「聖人」を意味する→セント・フランシス・ザビエルと呼ばれています。 マラッカを支配したポルトガルは・・・・・「キリスト教カソリック派」 その後、この地を支配したオランダ・次のイギリスは「プロテスタント派」だったため カソリック教会として建てられた セント・ポール教会は 見放され・・・・ ホッタラカシに なったのであります。 セント・ポール教会の中に入ると ![]() 両側に沢山の「墓石」が立てかけてあります。 それは、2メートル以上もあり不思議な光景 何なのでしょうか? これにも・・・ややこしい訳があります。 ★謎2★ややこしい訳とは? じつは、 この墓石に刻まれているのは同じキリスト教徒でも 「プロテスタント派の功績者」信者さんたちなのです。 ローマ・カソリック教を否定し、 この教会をホッタラカシにしたプロテスタント派の墓石がなぜココにあるの? 1957年、 長かった植民地としての歴史に幕を引き 「マラヤ連邦」として独立したマレーシア政府は この丘にマラッカ州を統括する「知事」の公邸 ![]() 現在のガバナー・ミュージアムを設置しました。 イスラム教徒だった知事の公邸から見下ろす 丘陵地に点在していたのは墓石でした。 この丘の北側にある、 オランダ統治時代に建築されたプロテスタント教会 「クライストチャーチ」の墓地として利用されていたのです。 目障りだし・・・ イスラム教徒とキリスト教徒の死後の世界に対する価値観の違いも ややこしいし マレーシア政府は 平然として墓地の撤去を宣言し、素敵な公園を造ろうとしましたが この話を聞いたクライストチャーチ信者さんたちは、墓地撤去に大反対 マレーシア政府は、それを無視 墓地の代替え地も見つからないまま困っていた その時、カソリック教会が救いの手を差しのべました。 「せめて墓石だけでも保存したい!」という プロテスタント派の信者さんの気持ちをくみ取り 『キリストの名において』カソリック派の信者さんが撤去工事の進む現場で チカラを合わせて墓石を、このセント・ポール教会史跡に運び込んだのです。 ![]() ![]() 太陽が教会正面の窓からスッと登り 東から西に軌跡を残しながら マラッカ海峡に沈む と言うので驚きます! それは、 きらりが見てきたエジプトのアブシンベル神殿や メキシコのククルカンのピラミッドにも・・・ 思い出しますね・・・素敵な旅を ![]() ![]() 偶然にも 春分と秋分の日に合わせて、遺跡が造られていたんです。 人間は ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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