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「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

ほしのきらり。

カテゴリ

2017.07.01
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カテゴリ:「読書」
「みをつくし料理帖」俎橋のつる屋から日本橋川を下って、伊勢屋の辺り大橋まで歩きました。

みをつくし料理帖に度々、出て来る橋は、

俎橋「まないたばし」ですが、

つる屋から川を下り一ツ橋を通り、

登龍楼や坂村堂・伊勢屋・大阪屋のあった辺りを歩いて来ました(^-^)V



俎橋(まないたばし)→宝田橋(たからだばし)→雉子橋(きじばし)→一ツ橋(ひとつばし)→ 錦橋(にしきばし)→神田橋(かんだばし)→鎌倉橋(かまくらばし)→常盤橋(ときわばし)



俎橋(まないたばし)

俎橋(まないたばし)・・・とは?

江戸時代初期の架橋と思われるが、

詳しい年代は不明である。

江戸時代には東側には武家地が広がり、

西側は飯田町と称した。

東側には現在のように橋を降りて直進する道路はなかったため、

橋は現在ほど往来が多くはなく、橋自体も小規模であった。




宝田橋(たからだばし)

宝田橋(たからだばし)・・・とは?

初代の橋が架けられたのは1929年(昭和4年)10月

震災復興事業の一環であったが耐震・耐火性に劣る木造橋であった。

橋名は、かつてこの付近にあった宝田村から採られている。

現在の橋は1968年12月に架けられた鋼橋であるが、

皇居周辺の橋に比べ簡素なデザインとなっている。


雉子橋(きじばし)

雉子橋・・・名前の由来は?

江戸時代には、数万人の唐人が、江戸に来たそうで

唐人のおもてなしには、雉子(きじ)が一番好まれると言うので

諸国からキジを集めて、鳥屋を作ったので

雉子橋と名付けたのだとか

外濠から、平川濠にかけては、

江戸城の本丸にも近かった為に

警備が非常に厳しくて

「雉子橋でけんもほろろに叱られる」

警備の藩士の厳しさと

けんけんと鳴く声をかけた意といわれます。




一ツ橋(ひとつばし)

一ツ橋(ひとつばし)・・・とは?

この橋は、一ツ橋といい

内濠川に架かる見附橋です。

徳川家康が江戸城へ入ったころは、

大きな丸木が一本架けられていて

その名で呼ばれていたといいます。

寛永図(1624年~1643年)には、

一ツ橋とかかれています。

橋のちかくに、

松平伊豆守の屋敷があったので

伊豆橋と呼ばれた事もあります。

その屋敷あとに

八代将軍吉宗の第四子が居をかまえていたために

橋の名前をとって一ツ橋家と称したといわれていました。


錦橋(にしきばし)

日本橋川に架かる 「にしきばし」・・・とは?


大手町一丁目から、神田錦町三丁目に通じる広い道筋上です。

関東大震災の復興橋のひとつで

昭和2年のコンクレート橋です。

橋名は・・・

錦町や錦町河岸からつけられました。

「錦」は、昔

近くに一色という武家屋敷が二軒あったので

二色→錦と転化したのだといわれています。



神田橋(かんだばし)

首都高速5号線の下に~ひっそりと

昔は、こんな感じ♪

神田橋(かんだばし)・・・とは?

橋名は、かつてこの付近にあった神田明神に由来する。

江戸城の増築により

外神田に移転した神田明神跡には

神田御門と土井大炊頭利位の屋敷が設けられた。

寛永時代の地図では

「大炊殿橋」の名で記されている。

神田橋から上野広小路を通り寛永寺へと通じる道は、

歴代の徳川将軍が寛永寺に参詣する際に通ることから

「御成道」と呼ばれた。

現在でも、天皇皇后両陛下が車で北関東方面に向かう際に

ここを通ることから、「御成道」の名は残っている。

1923年(大正12年)の関東大震災で崩壊し、

現在の橋は

1925年11月10日に架け替えられたものである。

新たな橋は単純鈑桁橋で、石灯籠を思わせる親柱と、

橋のたもとには復興に尽力した太田圓三の碑がある。

見事なアーチの端は、現在・・・修復中でした。


アーチは、解体して、一石づつ番号をふって

本棚の様に並んだ石↑日本人ならではですね~

外国の遺跡修復との違いに驚かされます!

日本人は、凄いですね・・・

神田橋の石が並べられております。貴重な体験です(ちょっと感動)


街の表記は・・・

『内神田一丁目』

江戸時代、神田橋のたもとのこの界隈には、

荷揚げ場がありました。

徳川家康は、

江戸に入るとすぐに江戸城の築城と町づくりを始め

城を囲む御堀(現・日本橋川)は、

そのための建設資材などを運ぶ水路として活用されました。

古い地図を見ると

神田橋付近に「かしふねあり」と記され

ここが水運の拠点だったことがわかります。




『鎌倉河岸跡』


「江戸名勝志」には、

「鎌倉がし、神田橋より常盤橋の辺の外の御堀はたを云」とあります。

また「続江戸砂子」には「鎌倉町、かまくらがしと云、御堀ばた米屋多し」といっています。

『東京案内』には

「鎌倉町寛永の頃(1624~43)は士地にして、

城地に沿う所を鎌倉河岸と称せり。

天和2年(1682)火災後、始めて鎌倉町と称す。

寛政11年(1799)の災後商家を外に移し

濠沿いの道を広め明治2年(1869)鎌倉横丁南側代地

新革屋町飛地を合す」とあります。



天正18年(1590)家康入国頃の初期この河岸は、

魚、青物のような生産食品をはじめ材木、

茅などの物資の集まる所でありました。

江戸城築城の時

鎌倉から石材を荷揚げしたので

この名がついたともいわれます。

江戸中期以後も水上交通のターミナルとして重きをなし、

木材、竹、薪などが多く荷揚げされました。

昭和になっても建築材料の荷揚げが行われていました。

また江戸時代この河岸の

豊島屋十右衛門という酒屋で売出す雛まつりの白酒は有名でした。

入る客、出る客をはかって売出したのですが、

中にはあまりの人で絶倒する客があったといいます。

この店も戦災までこの河岸にありましたが今も神田に残っています。

 
この鎌倉河岸跡にある橋は・・・

鎌倉橋(かまくらばし)

やっと見つけました(^0^)V


鎌倉橋(かまくらばし)・・・とは?

本橋左岸下流側に、

江戸城建設の際に相模国鎌倉からの材木を荷揚げした河岸があり、

鎌倉河岸と呼ばれた。

付近の町は「神田鎌倉町」と名付けられ、

本橋も鎌倉橋と称するようになった。

現在の橋は

関東大震災の復興事業で架け替えられたコンクリート製アーチ橋で、

1929年(昭和4年)4月25日に完成した。

欄干には、

1944年11月に米軍による爆撃と機銃掃射を受けた際の銃弾の跡が残っている。


神田なので、


ドラマに出て来る版元「坂村堂」は、この辺りのはず!!

もしかして↑趣のある建築「常磐小学校」


えええ~っ!


もしかして、ここかしらね~?


新常盤橋(しんときわばし)

これは、新しい常磐橋↑


常磐橋(ときわばし)・・・とは?

元は「大橋」と称され、

江戸城の大手門から浅草に直接向かう本町通り

(現在の江戸通りの原型とされる)上に置かれていた。

また、浅草に通じていることから「浅草口橋」とも呼ばれた。

太田道灌と親交が厚かった正宗龍統が記した

『江戸城静勝軒詩序并江亭記等写』に登場する

河口に架かる高橋を当時の平川(現在の神田川・日本橋川)の

河口付近にあったと推定されている常盤橋に当てる説(菊池山哉説ほか)があるが、

賛否両論がある。その一方、

永禄11年(1568年)に北条氏政が下総国の高城胤辰を

江戸城防衛のために駐屯させた「江城大橋宿」は

大橋(常盤橋)そばにあった宿場町であったとする説もある。

徳川家康による江戸の再整備後に日本橋が誕生して

江戸の交通が南北を軸にする以前は、

江戸城及び大橋(常盤橋)を中心とした

東西の軸によって陸路が形成されていたと考えられている

(江戸城の西の道は鎌倉や府中に、

大橋を通る東の道は浅草を経由して

奥州や房総に連絡していたと考えられている)。

ただし、大橋が架かる日本橋川は

徳川家康の関東移封後に開削されたとも考えられており、

その場合は常盤橋もそれ以前には存在しないことになる。

この場合、当時の平川は日比谷入江に注いでおり、

そこに架かっていた現在の江戸城大手門の橋(大手橋)は

三ノ丸が内城に取り込まれるまでは大橋と呼称されていた

それまでは現在の二ノ丸下乗門を大手門としていた。

『東京市史稿』では

高橋は大橋=大手門として、

当時の江戸市街の中心がそこにあったとしている。

寛永6年(1629年)、常盤橋の前に常盤橋門が設置され、

この頃に「常盤橋」の名称が登場したと考えられている。

「常盤」の由来については、

『金葉和歌集』(巻1)の

「色かへぬ松によそへて東路の常盤のはしにかかる藤浪」に由来する説や、

「徳川氏=松平氏」と松が持つ常盤(常緑)を掛けて

同氏の繁栄が続く事を願ったとする説がある。

江戸の交通の中心は日本橋にその地位を譲ったものの、

常盤橋から浅草方面の途中には

「伝馬町」「馬喰町」など運送業者に由来する町(名)が引き続き栄えていた。

明治になってから、

石造のアーチ橋の常盤橋が造営されたものの、

手狭であることから後に現在の常盤橋が造営されて、

旧橋は「常磐橋」と呼ばれるようになった。

平成19年(2007年)3月28日に常磐橋・常盤橋は

ともに千代田区景観まちづくり重要物件に指定された。

旧橋は

経年と東北地方太平洋沖地震の影響による損傷で

2011年より通行禁止となっていたが、

2013年より修復工事が行われている。


この常磐橋の近くにあったとされる・・・


「登龍楼」と「伊勢屋」は、この辺りのはず!


「みをつくし料理帖」は、フィクションでありますが・・・探してみると


な・なんと~大きな「登龍楼」は、イメージ通りに大きなビルです!

傲慢な「登龍楼」らしい現在の姿~なんてイメージたっぷりですね!?

となると、伊勢屋(旧・伊勢屋)は↓ココになるのです。

絶句であります~大きな両替商であった「伊勢屋」は


なんと~「日銀」改装中


円の形で有名な「日本銀行」だったのです!!


これには、作者の遊び心に驚いて、嬉しくなってしまいました(^-^)


ここの地図には、興味深い事がいっぱい記されておりました。

昆布を買った「大阪屋」は、なんと~「三越」です。

フィクションなのに、イメージが現在に重なって・・・

「江戸桜通り」う~ん!江戸ですね~♪


私は、一石橋を渡って・・・東京駅へ


なんと~歩きましたね!


神田・北の丸公園「千代田のお城」から「大橋」新常盤橋まで


江戸時代への旅って今でも出来るのですね~また歩いてみたいです(おわり)


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最終更新日  2017.07.02 08:51:28
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