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「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

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2017.07.03
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テーマ:読書(8208)
カテゴリ:「読書」

太宰治のエピソード ・・・参考(ウィキペディア様より)



1929年(昭和4年)

弘前高校で校長の公金流用が発覚、

学生たちは

上田重彦(石上玄一郎)社会科学研究会リーダーのもと

5日間の同盟休校(ストライキ)を行い、

校長の辞職、

生徒の処分なしという成果を勝ち取る。

太宰はストライキにほとんど参加しなかったが、

当時流行のプロレタリア文学を真似て、

事件を『学生群』という小説にまとめ、

上田に朗読して聞かせている。

津島家は太宰の左翼活動を警戒した。

翌年1月16日、

特高は田中清玄の武装共産党の

末端活動家として動いていた

上田ら弘高社研の学生9名を逮捕。

3月3日、逮捕された上田ら4人は放校処分、

3人が論旨退学、2人が無期停学となっている。

大学生になった太宰は

活動家の工藤永蔵と知り合い、

共産党に毎月10円の資金カンパをする。

初代との結婚で

津島家を分家除籍にされたのは

政治家でもある文治に

非合法活動の累が及ぶのを防ぐためでもあった。

結婚してからはシンパを匿うよう命令され、

引っ越しを繰り返した。

やがて警察にマークされるようになり、

2度も留置所に入れられた。

1932年(昭和7年)7月、

文治は連絡のつかなかった太宰を探し当て、

青森警察署に出頭させる。

12月、青森検事局で誓約書に署名捺印して

左翼活動から完全離脱した。


太宰の墓がある東京都三鷹市の禅林寺では、

太宰と富栄の遺体が引き揚げられた6月19日には

毎年多くの愛好家が訪れている。

これは一般に「桜桃忌」と称されている。

太宰の出身地・金木でも

桜桃忌の行事を行っていたが

「生誕地には生誕を祝う祭の方がふさわしい」

という遺族の要望もあり、

生誕90周年となる1999年(平成11年)から

「太宰治生誕祭」に名称を改めた。

身長175センチと

当時の男性としては大柄で大食漢だった。

新婚当時、酒の肴に湯豆腐を好み、

豆腐屋から何丁も豆腐を買っていたので

近所の噂になるほどだった。

太宰曰く

「豆腐は酒の毒を消す。味噌汁は煙草の毒を消す」

とのことだったが、

歯が悪いのと何丁食べても

たかが知れているのが理由だった。

京都「大市」のスッポン料理や、

三鷹の屋台「若松屋」のウナギ料理が好きだった。

味の素が好きで、

鮭缶を丼に開け、

味の素を大量にふりかけて食べた。

味噌汁も好きだった。

生家が一時養鶏業をやっていたこともあり、

鶏の解剖が隠れた趣味だった。

戦時中、

妻の美知子が

三鷹の農家から生きた鶏1羽を買ってくると、

自分でさばいて水炊きや鍋にして食べた。

短編「禁酒の心」にあるように酒もよく飲んだ。

体に悪いと言われると

「酒を飲まなければ、

クスリをのむことになるが、いいか」と弁解した。

虫歯だらけの

「みそっ歯」だったが、

美知子夫人の勧めで歯医者に通い、

32歳でほとんど入れ歯にした。

足のサイズが十一文と大きく、

甲高だったので、

足にあう靴や足袋がなく苦労していた。

戦後の戦災者への配給で

兵隊靴(軍用ブーツ)を購入、

これを気に入り愛用した。

林忠彦が撮影した銀座の

「ルパン」の写真で

履いているのがこの兵隊靴である。

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最終更新日  2017.07.04 10:16:36
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