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カテゴリ:東京寺社&庭園散歩♪
小林一茶が住んでいたのも両国だったんですね〜これも新発見です
きらりの『両国旅日記』・・・その27 小林一茶居住の地 所在地:東京都墨田区緑1丁目1番地 江戸時代後期の俳人 小林一茶は・・・ 宝暦13年(1763年)5月、 信濃国水内郡柏原宿 (現:長野県上水内郡信濃町大字柏原)で、 本百姓小林弥五兵衞の長男として生まれました。 本名は・・・小林信之、 幼名は、弥太郎といいます。 3歳で母「くに」と死別し、 8歳の時迎えた継母とは不破となり、 一茶の生涯と作品に大きな影響を与えました。 15歳の時には、 江戸へ奉公に出て、 苦労多い生活の中で 俳諧に親しみます。 やがて葛飾派の溝口素丸や、 小林竹阿に師事し俳諧を学び、 各地を巡歴しながら 多くの俳人と交流し 俳諧への理解を深めていきました。 一茶は、 文化元年(1804年)10月、 それまで住んでいた本所五ツ目大島 (現:江東区大島)から 本所相生町5丁目 (現:緑1丁目1番の一部および2・3番)の 借家に移ります。 家財道具が運び込まれた日に一茶は、 寝始る其夜を竹の時雨哉 (『文化句帖』より) という句を詠んでおり、 居宅の周辺には、 竹が植わっていたことがうかがわれます。 一茶は、 5年ほどこの地を拠点に活動しましたが、 文化5年12月に旅から帰ると、 留守中に借家が他人に 貸し出されてしまっていました。 行年を元の家なしと成りにけり (『文化五・六年句日記』より) 以後、 弟子や後援者の家を転々とし、 文化10年に故郷に戻りました。 晩年は・・・ 妻と三男一女の死、 度重なる病、 住居の類焼などに悩まされながらも 句を読み続け、 文政10年(1827年)65歳で亡くなるまでの 作品数は、二万句に及びました。 主な著書に、 『父の終焉日記』 『七番日記』 『おらが春』などがあります。 子供や小動物への慈愛に満ちた作品が よく知られていますが、 自らの境遇、 都市や農村の日常に生きる人々の姿、 政治や社会に対する思いを 平明な言葉で句に詠んでおり、 当時の社会状況や 日常生活の実情を 今日に伝えるものとなっています。 平成25年3月 墨田区教育委員会 【地図】小林一茶の居住跡は清澄通り二之橋手前です 小林一茶の有名な俳句・・・とは? やせ蛙まけるな一茶ここにあり 雀の子そこのけそこのけお馬が通る やれ打つな蝿が手をする足をする 我ときて遊べや親のない雀 世界遺産にぽち お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.03.04 00:10:09
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