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「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

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2023.03.04
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小林一茶が住んでいたのも両国だったんですね〜これも新発見ですスマイル

​きらりの『両国旅日記』・・・その27​


​​小林一茶居住の地​

所在地:東京都墨田区緑1丁目1番地



江戸時代後期の俳人

小林一茶は・・・

宝暦13年(1763年)5月、

信濃国水内郡柏原宿

(現:長野県上水内郡信濃町大字柏原)で、

本百姓小林弥五兵衞の長男として生まれました。


本名は・・・小林信之、

幼名は、弥太郎といいます。


3歳で母「くに」と死別し、

8歳の時迎えた継母とは不破となり、

一茶の生涯と作品に大きな影響を与えました。


15歳の時には、

江戸へ奉公に出て、

苦労多い生活の中で

俳諧に親しみます。


やがて葛飾派の溝口素丸や、

小林竹阿に師事し俳諧を学び、

各地を巡歴しながら

多くの俳人と交流し

俳諧への理解を深めていきました。



一茶は、

文化元年(1804年)10月、

それまで住んでいた本所五ツ目大島

(現:江東区大島)から

本所相生町5丁目

(現:緑1丁目1番の一部および2・3番)の

借家に移ります。


家財道具が運び込まれた日に一茶は、

寝始る其夜を竹の時雨哉

(『文化句帖』より)


という句を詠んでおり、

居宅の周辺には、

竹が植わっていたことがうかがわれます。


一茶は、

5年ほどこの地を拠点に活動しましたが、

文化5年12月に旅から帰ると、


留守中に借家が他人に

貸し出されてしまっていました。

​行年を元の家なしと成りにけり​

(『文化五・六年句日記』より)

以後、

弟子や後援者の家を転々とし、

文化10年に故郷に戻りました。



晩年は・・・

妻と三男一女の死、

度重なる病、

住居の類焼などに悩まされながらも

句を読み続け、

文政10年(1827年)65歳で亡くなるまでの

作品数は、二万句に及びました。


主な著書に、

『父の終焉日記』


『七番日記』



『おらが春』などがあります。


子供や小動物への慈愛に満ちた作品が

よく知られていますが、


自らの境遇、

都市や農村の日常に生きる人々の姿、

政治や社会に対する思いを

平明な言葉で句に詠んでおり、

当時の社会状況や

日常生活の実情を

今日に伝えるものとなっています。

  平成25年3月

  墨田区教育委員会


【地図】小林一茶の居住跡は清澄通り二之橋手前です下向き矢印


​小林一茶の有名な俳句・・・とは?​


やせ蛙まけるな一茶ここにあり

雀の子そこのけそこのけお馬が通る

やれ打つな蝿が手をする足をする

我ときて遊べや親のない雀



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最終更新日  2023.03.04 00:10:09
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