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テーマ:東京の公園・庭園(154)
カテゴリ:東京寺社&庭園散歩♪
東京にもこんなに広々とした日本庭園があったのですね〜野鳥が飛んでくる『清澄庭園』
きよすみていえんき りょうてい 清澄庭園記・涼亭 2023年2月11日(土)朝の訪問 【清澄庭園内の地図】涼亭あたりを歩いています 大泉水という大きな池をぐるっと周って歩く日本庭園です どんな野鳥が来るのでしょうか? 冬の野鳥は・・・キンクロハジロ ホシハジロ、オナガガモ、ヒドリガモ、など。 夏の野鳥は・・・ツバメ、など。 通念見られる野鳥は・・・キジバト、ヒヨドリ、 オナガ、ムクドリ、シジュウカラ、アオサギ、 ゴイサギ、カワウ、ユリカモメ、など。 地図と標識を確認しながらの・・・まったりお散歩。 この庭園は、起伏が少ないので楽ちんです。 標識を確認しながら・・・「涼亭」Riyoutei方向へ 樹木に囲まれた場所まで入って来ました 大きな一枚岩に記された文字には・・・何が 清澄庭園についてとても古く昭和4年に記された文字です。 どこまで読めるかしら? 清澄園記 本園はもと岩崎男爵の別墅になりしを 大正一三年六月東京市に公園として 寄附せられたるものなり 江戸地圓を案するに寛延二年前におりては 松平大炊の名見ゆるも以後は 久世大和守の下屋敷となり 明治維新後は久しく荒廃に帰せしを 明治十一年に岩崎彌太郎君始めて 附近一帯と併購して別邸を構へ庭園を拓き 殊に奇巌珍石を全國より移し來りて 其景観を添へ名付けて 深川親睦園と伝ひ故舊内外紳士を会して その清娯を倶にし 又社員平日の勤労を慰むるの處とせられたり 十八年君榼逝の後彌之助君は、 今兄の志を紹?更?園池を???? ???文字が消えてもう読めない・・・・残念 昭和四年九月 東京市 95年前の石碑なので仕方ないです。 岩崎久彌・・・とは? いわさきひさや (1865年10月14日〜1955年12月2日) 明治から昭和にかけての実業家。 三菱の創業者:岩崎彌太郎の長男。 三菱財閥3代目、男爵。 清澄庭園を東京市に寄付したことを称えた石碑。 ざっくり、現代用語で説明すると・・・ 明治11年(1878年)に岩崎彌太郎が、 この邸地を含む一帯3万坪を取得し、 社員の慰安や貴賓を招待する場所として造園を計画、 明治13年(1880年)に『深川親睦園』を開園しました。 その後も、 造園工事は進められ、 隅田川の水を引いた「大泉水」をはじめ築山、 周囲には全国から取り寄せた名石を配して、 明治の庭園を代表する 「回遊式林泉庭園」として完成しました。 関東大震災後、 大正13年(1924年)、 震災被害の比較的少ない東半分が、 岩崎家から、東京市に寄付され、 『清澄庭園』として復旧、整備して 昭和7年(1932年)7月に、 東京市の公園として開園しました。 また、 昭和52年(1977年)には、 庭園の西側に隣接する敷地を 開放公園「清澄公園」として開園しました。 昭和54年(1979年)3月31日に『清澄庭園』は、 東京都の名勝に指定されています。 なお、 大正12年(1923年)9月の関東大震災や、 昭和20年(1945年)3月の大空襲の時には、 避難場所として多くの命を救いました。 重要な役割を今でも継承しているのですね りようてい 「涼亭」 Ryoutei House 池に突き出るようにして建てられた数寄屋造りの建物。 (中は、自由に見学できないようです〜残念) これが・・・ この庭園を日本情緒豊かなものにしています。 「涼亭」は、 明治42年(1909年)に国賓として来日した 英国のキッチナー元帥を迎えるために 岩崎家が建てたものです。 震災と戦火の被害からまぬがれ、 今日に至りましたが、 昭和60年(1985年)に 全面改修工事を行いました。 集会場として利用できます。 平成17年(2005年)には、 「東京都選定歴史的建造物」に指定されました。 「涼亭」を色々な角度から撮影したので・・・もう一度 磯渡りからの「涼亭」 園内の富士山前からの「涼亭」 中の島から眺めた「涼亭」 大正記念館前から見下ろした「涼亭」 船着石の辺りから眺めた「涼亭」 大磯渡りをしながら見る「涼亭」 どこから見ても「清澄庭園」のシンボルです (写真撮影:ほしのきらり。) 三菱財閥・・・あちこちにお庭あり。 世界遺産にぽち お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.05.07 00:10:13
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