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朝ドラ『らんまん』に登場した土佐出身の岩崎彌太郎の弟について調べてみました
![]() 華麗なる岩崎家の人々 ![]() いわさきやたろう 岩崎彌太郎(弥太郎) 1835年1月9日〜1885年2月7日 天保5年12月11日 明治18年2月7日 日本の実業家。三菱財閥(現在:三菱グループ)の創始者。 この方の弟です ![]() いわさきやのすけ 岩崎彌之助(弥之助)・・・とは? 1851年2月8日〜1908年3月25日 嘉永4年1月1日 明治41年3月25日 日本の実業家。三菱財閥の二代目総帥。男爵。 三菱財閥の創始者:岩崎彌太郎の弟。 ![]() ![]() 【岩崎家の家系図】 岩崎弥次郎・美和夫妻の三男として、 土佐国安芸郡井ノ口村(現在:高知県安芸市)に生まれた。 1867年(慶応3年)、満16歳の時、 土佐藩校致道館に入学。 この時、 岩崎家は郷土の地位を失って地下浪人に没落しており、 無事の教育を受けられる身分ではなかったが、 兄の彌太郎が吉田東洋の知遇を受けて 下級役人に出世していたため、 入学することができた ![]() 1869年(明治2年)、大阪に出て、 しげのやすつぐ 重野安繹(漢学者・歴史家) 1827年11月24日〜1910年12月6日 の私塾成達書院に入門し、 この時に英語を学ぶ。 1872年(明治5年)4月、アメリカに留学 ![]() 横浜で貿易商をしていた ウォルシュ・ホール社のウォルシュ家に寄宿し、 Walsh,Hall and Co. フランス・ホール(同社の社員だが創立者のホールとは別人)の 兄エドワードが開校し校長をしていた ニューヨーク近郊のコネチカット州エンリントンにある 男子校(Edward Hall's Familly School for Boys)に通った ![]() 1873年(明治6年)11月、父の彌次郎が急逝し、 兄の懇願もあって1年で留学を中断して帰国 ![]() 三菱商会に入社。 翌年、 1874年(明治7年)の秋、 彌太郎夫妻の仲人で、 後藤象次郎の長女:早苗と結婚した ![]() 敬愛する彌太郎の事業を助け、 米国の太平海郵便汽船や、 英国のP&O汽船会社との競合に手腕を振るう ![]() 1885年(明治18年)2月、 彌太郎が死亡してからは、 二代目総帥として三菱の多角化に尽力。 ライバルの共同運輸会社との合弁により 日本郵船を誕生させ、 開運部門を切り離すことで、 鉱山開発や、造船建造、地所、倉庫などの事業を興した。 1890年(明治23年)、 政府から丸の内の土地購入の打診があり、 荘田平五郎や末延通成に相談したうえで120万円で購入 ![]() のちの『三菱の三大買い物』の一つに挙げられている。 ![]() ![]() 1893年(明治26年)に三菱合資会社を設立。 三菱の総帥の座を甥の久彌(彌太郎の長男)に譲り、 監務(今の相談役)の役職に就く。 1896年(明治29年)には、 川田小一郎の後任として 第4代日本銀行総裁となるも、 当時の大蔵大臣と折り合いが悪く、 2年ほどで退職した。 1889年(明治22年)、東京市会議員選挙に神田区から立候補し落選。 1890年(明治23年)、帝国議会の創立時に、 勅任されて貴族院議員となったが、 1891年(明治24年)9月30日に辞職した。 ![]() 岩崎家ゆかりの地へ行ってみましょう ![]() ![]() きゅういわさきていていえん 『旧岩崎邸庭園』東京都台東区池之端1−3−45 ![]() きよすみていえん 『清澄庭園』東京都江東区清澄3−3−9 ![]() りくぎえん 『六義園』東京都文京区本駒込6−16−3 ![]() とのがやとていえん(ずいぎえん) 『殿ヶ谷戸庭園(随冝園)』東京都国分寺市南町2−6 ![]() (写真撮影:ほしのきらり。) ![]() 世界遺産に ![]() ![]() ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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こんな旅行に行けるお金があったらなあ
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