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カテゴリ:検察とマスコミ
いやなテレビ見ちゃったよ…」で、自民党の106億円の賄賂を、東京地検が摘発しようと捜査に乗り出した時、その捜査を警察組織の最高権力者である最高検察庁検事総長の河上和雄が「捜査の停止命令」を出し、自民党政治家達のワイロ受け取りを「見逃した」っていう話をしましたが、また、検察のお話をここでひとつ。

先日1月18日に静岡刑務所を出所した三井環氏は元大阪高等検察庁公安部長検事です。「三井さんお帰り!」でも出しましたが「でっち上げ冤罪事件」で出所したのです。

その事件のあらましやらなにやらの出ている、講演会の記述がありましたので一部を出させていただきます。

検察の実像(特定非営利活動法人 関西友愛会)

<一部転載>

▼三井環事件とは何か?

 2002年4月22日。大阪高等検察庁公安部長検事の三井環(みつい・たまき)氏はこの日、昼間にテレビ取材に対して検察の裏金作りの実態を実名告発する予定になっていた。

 しかし、まさにその直前、その日の朝、彼は待ち構えた検察職員によってでっち上げ逮捕されてしまう。明らかな「口封じ逮捕」である。

 このとき大手マスコミは、こぞって検察側からの一方的な情報を垂れ流し、"悪徳検事・三井環"像を作り上げた。

<省略>

 「内部告発を思い立ったのは、ある人物に対する個人的な恨み、つまり私憤(しふん)だった」と、三井氏は言う。事の発端は、1997年にさかのぼる。

発端は元「関西検察のエース」の逆恨み

 1997年11月、特捜部長時代「関西検察のエース」と呼ばれていた大阪地検次席検事(当時)の加納駿亮(かのう・しゅんすけ)氏が指揮した京都地検での贈収賄事件で、三井氏(当時、大阪高検刑事部検事)の進言により、ある教授の逮捕が見送られた。この事件は内偵不足が明らかだったのだ。結局、この独自捜査は失敗に終わる。そしてそれは、指揮官である加納氏の責任であった。

 その後、三井氏は当時の高松高検の村田恒検事長にこの京都事件の顛末(てんまつ)と自身の意見を手紙に書いて送った。ところが、この手紙が思わぬ災いのきっかけとなってしまう。 1998年春、村田検事長が京都地検の武内徳文検事正と会い、彼に手紙の件を話し、それが大阪高検の幹部に伝わった。そして、それが加納氏に伝わってしまったのだ。それ以降、加納氏は三井氏に対し不快感を露骨に表すようになる。そして、三井氏は関西検察にいることができない状況になってしまった。

 そこで、三井氏は大阪高検・荒川検事長に異動願いを出した。

1998年4月、三井氏は名古屋高検総務部長に着任。その年の末、法務省筋は三井氏の高松高検次席検事への異動を提案したが、加納氏らがこれに異を唱え、見送りとなる。このことは、三井氏が加納氏を告発する遠因となる。

 1999年7月、三井氏は名古屋高検総務部長から大阪高検公安部長へ異動になった。

 ここでまた加納氏らの"横やり"が入る。本来、高検公安部長の給料は検事2号俸ポストなのだが、三井氏は3号俸ポストのまま据え置かれた。これは加納氏の逆恨みによるものであった。

 このとき三井氏は、この加納氏の行為を自分に対する侮辱であると同時に、自らが愛する「検察への冒とく」と受け止め、調査活動費・裏金問題で加納氏を告発しようと決意する。

 三井氏は加納氏を告発することで関西検察の性根を叩き直し、逆恨みや私情で人事を左右する不正義を正そうと考えたのだった。


●加納検事正を刑事告発!

 2000年5月、三井氏は信頼する川上道太(四国タイムズ社社長)氏にこの件を相談する。これに対し川上氏は全面的に三井氏に協力することを約束。その後、三井氏と川上氏は協力して告発を進め、同年12月ごろ、月刊誌「噂の真相」の取材を受ける。

そして、2001年1月10日発売の「噂の真相」(2001年2月号)に、

<加納駿亮・大阪地検検事正が、高知地検検事正時代に約400万円にも上る調査活動費を私的に流用していた>というスクープ記事が載る。

 しかしこの時、他のマスコミは後追い記事を書かず、大きな社会的影響力を与えることはできなかった。

 三井氏と川上氏は裏金追及第2弾として、2001年3月29日、このとき大阪地検検事正になっていた加納氏が高知地検検事正だったころの裏金作りを「虚偽公文書作成、同行使、詐欺」などの罪で最高検に刑事告発した。表向きの告発人は川上氏になっているが、実質的な告発人は三井氏だった。

 この捜査が始まる前に、早速告発の効果があらわれた。加納氏の検事長人事に影響を与えたのだ。刑事告発したのと前後して、加納氏が高松高検検事長に就任することがほぼ内定していたのだが、それが直前でひっくり返った。結局、加納氏に代わって入省年次が1つ下の宗像(むなかた)紀夫氏が高松高検検事長に就任した。

 加納氏の検事長人事は見送られたが、捜査が始まる気配は見えなかった。そこで、三井氏と川上氏は同年5月11日に、加納氏が神戸地検検事正だった当時の裏金作りについても最高検に刑事告発した。


●検事長に昇任されるその裏で・・・

 一旦は検事長の線が消えた加納氏だったが、元大阪高検検事長の逢坂貞夫氏や、元検事総長の土肥孝治氏らの強烈な巻き返しがあり、同年11月15日発令の検事長人事で、勇退する飯田英男福岡高検検事長の後任として、加納氏が昇任する案が浮上した。人事のゴリ押しである。

 ここで三井氏は、被告発人である加納氏がシロ・クロはっきりしないまま、天皇の認証官である検事長に就いていいはずがないと思い、自らが表に出てこの不正を告発することを決意する。

「週刊文春」、「週刊朝日」に対し三井氏本人が匿名で告発し、その内容がそれぞれに掲載された(「週刊文春」2001年11月8日号、「週刊朝日」2001年12月7日号)。

 しかし法務省は、こうしたマスコミの批判に対して委細構わず、同年11月1日、加納氏の福岡高検検事長昇任内示を発表した。


 実はこのとき、この裏で、検察の原点を崩壊させかねない信じられない事態が起きていたのだ。これが三井氏をして現職のまま実名で検察の裏金作りをマスコミなどに公表する決断をさせたきっかけだった。

 その信じられない事態とは何か?それはこれから、三井氏本人に語ってもらおう――。

<文字制限のため(2)へ>

<転載途中 続きは、三井環氏のでっち上げ冤罪事件(2)へ>





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最終更新日  2010.01.24 18:12:33
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