;大局観 有りや無しや (補 足)
公定歩合が最も低い水準へと達したあと、更なる金融緩和措置をとることが求められるケースでは、金融の大枠を更に広げることで、資金需要を創出するという方法を中央銀行は取る。先鞭をつけたのは日銀だったが、リーマンショックではFRBもこの方法を採用した。量的緩和と呼ばれているものが、これ。日銀が金融機関を構成する傘下の銀行などに、貸し出しを促すための資本を大量に供給することで、金利の上昇を事前に抑制する効果が引き出せる。この場合市中銀行は日銀から流動性を引き出すために、同額の担保を差し出すことになっている。それが国債とされていたことから、多くの債券を保有する金融機関ほど、大量の資本を調達することができるようになっていた。 日銀が先般二度目の量的緩和に踏み切ったということは、傘下の金融機関が保有国債を担保とすることにより、同額の資本を新たに市場へと供給することができるようになったということ。自己資本比率を高めることができるのだから、金融機関としての信用度は増す。預金量を増やすことができたとしても、それは他者資本が増えたことにしかならない。このため預金獲得に銀行がどんなに精励したところで、銀行の信用度を高める効果は得られなかった。国際間での決済を行うための銀行であるためには、8%の自己資本比率が維持されていなければならない。それ以外の銀行では4%の水準を確保することが義務付けられている。 日本政府は国債の増発を毎年迫られていることから、新規発行する国債がすべて消化される、という揺るぎのない体制を敷いておく必要に迫られていた。発行済みの国債が売れ残ると、それは長期金利を単純に引き上げる。金融緩和を実施するためには、金利が低下している状態が維持されていなければならない。それには国債の引き受け手の一部である銀行に、国債への積極的投資を促すための環境づくりが、欠かせない措置となっていた。その意味で量的緩和という方法は、国が発行した債券を、日銀が傘下の銀行に割り振ることで、国債の完全消化を可能ならしめていた。取得した国債を担保として差し出すことにより、金融諸機関は日銀からより多くの資本を引き出せるようになるからだ。 他者資本の一部が連動して増えるにしても、国債の長期保有という行為には、金利収入を毎年着実に増やすという効果があり、自己資本の比率は総体的に一年単位で上昇する。平成24年度の国家予算に占める国債費の総額は22兆円。これを千兆円の負債総額で割ると、その金利収入は加重平均で2.2%となる。預金金利の極端な低さから見ると、国債への投資行為は極めて大きなメリットになっている。銀行という名の金融機関とは、金利差のやりとりを収益の柱とすることで、営業を成り立たせている会社組織であることを意味する。経済識者たちはタイミングの不自然性を訝しんでいるのだが、国債を発行する立場の国の都合を勘案すると、合理性は諾(うべな)えるものとなる。 金融機関としての銀行がその機能を十全に果たすためには、量的に緩和された流動性を手段として、企業に対し積極的に融資することができていなければならない。銀行は投資することによってではなく、融資することを以って企業活力を底上げする、という裏方の役割を果たすことができていなければならない。日本の銀行はおしなべて、投資行為を行わないとする姿勢から離れることができない。投資リスクを取らないばかりではなく、融資リスクさえ取ろうとしない保守的な業界でありつづけている。日銀が量的緩和に踏み切ったところで、その効果は多寡が知れていることなのだ。企業に融資するよりも安全な方法は、国債に対する投資以外にはないからである。このようなバックグラウンドがあったことから、銀行は国債への投資に積極的な姿勢で臨んでいたのだ。 銀行が融資に対して極めて慎重であるというのは、リスクをとれないというその企業としての性格のなせる業。日銀が量的緩和を実施することによって、銀行が融資活動を積極的に行うだろう、という理解がかねてより一般化していたのである。企業に融資するはずの資本が、国債投資へと向かっていくと、国の経済は一体どういうことになるのだろうか。国は赤字国債の発行が容易になり、日銀は量的緩和という措置をアピールすることができる。それだけでは金融緩和措置の効能を、多くても半分しか引き出せない。 銀行が企業に対する融資を積極的に行わなければ、市場に於ける流動性の厚みは生まれない。カネの回らない市場は、負の循環から景気を抜けださせない。このデフレスパイラルから離脱することができない限り、景気の回復は実現しない。平面的な措置に基づく方法だけでは、立体的な効果など生み出せる訳がないのだ。経済というものから時間軸を捨象すれば、三次元の立体的な構造躯体だけが残される。 与信能力を補強拡大してこなかった日本の金融機関は、デフレ経済とその循環を成り立たせているサイクルを、いつまで経っても断ち切ることができない。日銀による金融緩和措置は、解熱剤の服用という意味しかもたない。症状が一時的に改善したところで、病根が放置されていたのであれば、緩慢な衰弱を進行させるだけの結果となる。そこに円高という病原菌が侵入してきたことによって、出血と発熱とのダブルパンチを受けたのであり、日本経済は致命的なダメージを与えられるようになったのだった。国内市場に於ける流動性の増加は、リスクを取りたがらない金融機関の業によって、民間企業に対する融資にではなく、最も安全だと思われている国債に対する投資へと向かう。このため日銀が目論んでいた所期の資本効果は、限定的な機能を垣間見せる程度のことで収束する。この経過は経済政策から実効を取り除く、という結果をどこまでも生みだし続ける。そのために国の損失は増える一方となり、その総計がついに千兆円を突破してしまうこととなったのだった。失われた二十年とは、要するに経済政策の誤りが生み出したものだったのである。 病人は誤った診断とそれによる処方箋とによって、より早く衰弱する運命に追いやられていく。経済の現実はまさしくそのような姿になっている。経済のヤブ医者が、日本の復興を自ら阻んでいるということなのだ。止血しないまま輸血を継続するその行為は、愚かさを証明する以外の意味を何一つもたない。幸い債務ショックの危機感がEU市場で薄らぐようになったため、アメリカの経済指標が一部で明るさを取り戻しはじめている。ドルへの信任が再評価されかけている今のうちに、日本は円安状態を今後も持続させるための措置を、速やかに講じておく必要がある。ユーロ危機は、より深刻な事態へと発展する可能性を未だに秘めている。ドルが置かれているその差し迫った状況は、FRBをしてより一層憂慮の念を強めさせている。すべての要因は分かち難く相互に繋がりあっている。その一つに手をつけようとするだけで、全体の様相が大きく変わってしまうことになる。それもやむを得ないというほどの気概をもって、この最大の難局と対峙することができるなら、国際経済と資本の論理には健全化する可能性が浮上する。当事者にその能力が残されていることを、今、切につよく庶幾う。一時的な円安状態というものは、ドルを操るものにとって優越性を与えられたのと同じことなのだ。高くなったドルで安くなっている円を仕入れることが、より有利な条件でできるようになるからだ。反対に円安がこの先も続くようなら、それはドル売りをより慎重にさせるものとなる。円の価値を高めることが容易ではない場合、価値の下がったままの円で、相対的に高められた価値を宿すようになったドルを、これまでのように自在に買い戻すなどということは、まさしく合理性に反する行為となるだけなのだ。円を高めることに使われた外国籍の資本のすべては、日本市場で運用する以外に方法というものがなくなるのである。外資の流入が減るだけでなく、その流出もまた収まるということなのだ。これが景気の回復を可能にする唯一の即効薬である。誤った認識というものは、望ましからざる経過をこの国へと連れてくる。いま起きている市場の現実は、まさしく雄弁にその事実をよく伝えていたのである。