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照千一隅(保守の精神)

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「照千一隅(しょうせんいちぐう)」(一隅を守り、千里を照らす)は伝教大師・最澄の言葉。本を読み、考えたことをこのブログに書いて参ります。ご意見、ご感想など御座いましたら是非お寄せください。

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2015.11.14
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カテゴリ:思想・哲学
《百田尚樹氏の『永遠のゼロ』の影響か、特攻隊に関心をもつ若者が増えている。今の日本では、戦争もなく、貧困や犯罪などで死に直面することも稀である。自らの生と死を確認する術のない社会に生きる若者たちが、家族を守るために命を捨てた特攻隊に関心を持つのも無理はない。

 日本が追い詰められ、決死の覚悟で臨んだ戦争を象徴しているのが特攻であった。特攻隊の若者たちの心に、激しい葛藤があったのは間違いないが、それでも最後は「無私」に行きついた。特攻の根底に流れていたのは、「あきらめと覚悟」のような日本的精神であった。そのことを忘れてはならない》
(佐伯啓思:『SAPIO』(小学館)2015年2月号)


 特攻隊に関心を持つ若者が増えていると言えるほど私の周りではその数が増加しているとは思われないけれども、百田尚樹著『永遠のゼロ』が特攻隊について改めて考えさせる切っ掛けを与えてくれたことだけは確かであろう。

 さて、私は佐伯啓思氏の著述に触れることで多くのことを学んだものであるけれども、ややこの論考には違和感がある。

 まず、若者が<自らの生と死を確認する術のない社会>に生きているから特攻隊に興味を持つわけではないように思う。死に直面していた戦時中、若者が特攻隊に興味がなかったとは思われない。「興味」という言葉がそこに当てはまるのかどうかには検討の余地があろうが、どんな社会に生きようとも「神風特別攻撃隊」は若者、否、すべての日本人の琴線に触れる存在であったと言うべきではなかろうか。

 <特攻隊の若者たちの心に、激しい葛藤があったのは間違いないが、それでも最後は「無私」に行きついた>という部分にも疑問がある。果たして本当に特攻隊員たちは「無私」の境地にまで達していたと言い切れるのであろうか。
 例えば、特攻隊員が<家族を守るために命を捨てた>というのであれば、そこには幾許(いくばく)かの「私」が残っていたと言うべきではないか。

 このように言えば、半ば必然的に「無私」とは何かという問題に行き当たる。そこで少し回り道になるが、この「無私」という言葉に拘(こだわ)ってみたい。

《實(実)行家として成功する人は、自己を押し通す人、強く自己を主張する人と見られ勝ちだが、實は、反対に、彼には一種の無私がある。空想は孤獨(独)でも出來るが、實行は社會(会)的なものである。有能な實行家は、いつも自己主張より物の動きの方を尊重してゐるものだ。現實の新しい動きが看破されゝば、直に古い解釋や知識を捨てる用意のある人だ。物の動きに順じて自己を日に新たにするとは一種の無私である》(「無視の精神」:『小林秀雄全集』第12巻考えるヒント(新潮社)、p. 281)(続)





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Last updated  2015.11.14 23:19:49
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