私家版 さいたまの石仏

2016/05/10(火)20:51

富士見市水子 薬師堂墓地の石仏

富士見市の石仏(43)

ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら 石井緑地公園からさらに西南に進み性蓮寺のあたり、字は「正綱」になります。 薬師堂墓地 富士見市水子5136付近 性蓮寺の入口の少し手前、右手の台地に向かう細い道を登りきった先に薬師堂の墓地がある。その北の隅の一角に石地蔵を集めた小堂があった。七体の石地蔵は一見その大きさもまちまちで、ただ集められただけのように見える。 像の様子をよく見てみると左から3番目だけはあきらかにサイズが違うが、あとの六体はほぼ同じ印象を受ける。違っているのはその下の台のほうだった。紀年銘は寛政3年、寛政8年、明治のものなどもあり、後から台だけ補修されたものかもしれない。多分、この六体は六地蔵として造立されたものではないだろうか。 小堂の左 六地蔵菩薩石幢。笠付きのためだろうか、カビなども目立たず像の状態はとても良い。蓮台、敷茄子、台の飾りなど、彫りも細かく美しいものだが、何度見ても銘が見当たらず詳細は不明。 六面に浮き彫りされた六体の地蔵菩薩立像。いずれも端正で上品な立ち姿である。 その隣 宝篋印塔 天明7(1787)江戸時代中期以降に典型的な屋根型の笠を持つ。 基礎部、造立年月日が刻まれている面に「奉納大乗妙典日本廻國供養塔」とあった。江戸時代の宝篋印塔は個人の供養塔、墓碑塔として造塔されることが多いが、この宝篋印塔はよりパブリックな性格を持つもののようだ。脇に武州入間郡水子村 願主 宗栄(僧侶か)続いて個人名があり、さらに江戸講中と刻まれていた。 墓地の西側中ほど、雨除けの下に地蔵菩薩立像 寛政3(1791)帽子、前掛けなど、大切にされている様子がうかがえる。像の様子はわかりにくいが錫杖、宝珠を持つ延命地蔵だろう。 近づいて見ると顔の様子がひどい。自然の風化によってこうなったとはとても考えられないのだが、どういうことなのだろう? 台に文字が見当たらず、裏に回ってみたら像の背面に銘があった。中央に造立年月日。下のほうに水子邑 施主は個人名が刻まれている。 墓地の東側の入口付近のコンクリート塀の前に四基の石塔が並んでいた。 左 勢至菩薩の文字塔 宝暦6(1756)勢至菩薩は阿弥陀三尊の中で多く見られ、単独での像塔も珍しいが、文字塔となると私は今までに見たことがない。残念ながら塔の上部が欠けているが「六年丙子年」ということで宝暦と判断できる。左脇には武州入間郡水子村講中十一人と刻まれていた。 その隣 庚申塔 延享2(1745)唐破風笠付の角柱型。塔の正面上部に日月雲 梵字「ウーン」の下に「奉造立供養庚申講中二世安樂攸」下部に三猿が彫られている。 塔の右側面に造立年月日。続いて講中、願主とあり六名の名前。 左側面 武州入間郡水子村講中。その下に七名の名前。合わせて講中十三名だろう。 奥の二基は住職の墓石。左 享保9(1724)、右 宝暦2(1752)いずれも左脇に武州入間郡水子邑とあり、施主は個人名が刻まれていた。

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