1741866 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

私家版 さいたまの石仏

私家版 さいたまの石仏

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Profile

☆いたやま☆

☆いたやま☆

Keyword Search

▼キーワード検索

Category

Free Space

自転車とカメラが趣味で、気軽に写真を撮っています。
お地蔵様や庚申塔などの石仏にはまってしまいました。

さいたま市の石仏探しの参考書として
「石の文化財-浦和の石造物」浦和市教育委員会
「郷土の石佛 写生行脚一期一会」酒井 正

私家版さいたまの石仏のホームページ版は
http://saita-seki.jimdo.com/

2013.11.19 ブログ開設
2014.11.08 10,000アクセス
2015.04.02 20,000アクセス
2015.10.22 50,000アクセス
2016.06.27 100,000アクセス
2017.04.12 200,000アクセス
2018.01.25 300,000アクセス
2018.08.17 400,000アクセス
2019.04.07 500,000アクセス
2019.11.19 600,000アクセス
2020.05.28 700,000アクセス
2020.10.27 800,000アクセス
2021.03.07 900,000アクセス
2021.07.02 1,000,000アクセス
2021.11.28 1,100,000アクセス
2022.03.29 1,200,000アクセス
2022.07.14 1,300,000アクセス
2022.10.28 1,400,000アクセス
2023.03.29 1,500,000アクセス
2023.09.06 1,600,000アクセス
2024.03.12 1.700,000アクセス

Calendar

2016.05.10
XML
カテゴリ:富士見市の石仏
ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら

石井緑地公園からさらに西南に進み性蓮寺のあたり、字は「正綱」になります。

薬師堂墓地 富士見市水子5136付近

DSC_0749.jpg

性蓮寺の入口の少し手前、右手の台地に向かう細い道を登りきった先に薬師堂の墓地がある。その北の隅の一角に石地蔵を集めた小堂があった。七体の石地蔵は一見その大きさもまちまちで、ただ集められただけのように見える。

DSC_0255.jpg

像の様子をよく見てみると左から3番目だけはあきらかにサイズが違うが、あとの六体はほぼ同じ印象を受ける。違っているのはその下の台のほうだった。紀年銘は寛政3年、寛政8年、明治のものなどもあり、後から台だけ補修されたものかもしれない。多分、この六体は六地蔵として造立されたものではないだろうか。

DSC_0757.jpg

小堂の左 六地蔵菩薩石幢。笠付きのためだろうか、カビなども目立たず像の状態はとても良い。蓮台、敷茄子、台の飾りなど、彫りも細かく美しいものだが、何度見ても銘が見当たらず詳細は不明。

DSC_0760.jpg

六面に浮き彫りされた六体の地蔵菩薩立像。いずれも端正で上品な立ち姿である。

DSC_0764 (2).jpg

その隣 宝篋印塔 天明7(1787)江戸時代中期以降に典型的な屋根型の笠を持つ。

DSC_0763.jpg

基礎部、造立年月日が刻まれている面に「奉納大乗妙典日本廻國供養塔」とあった。江戸時代の宝篋印塔は個人の供養塔、墓碑塔として造塔されることが多いが、この宝篋印塔はよりパブリックな性格を持つもののようだ。脇に武州入間郡水子村 願主 宗栄(僧侶か)続いて個人名があり、さらに江戸講中と刻まれていた。

DSC_0747.jpg

墓地の西側中ほど、雨除けの下に地蔵菩薩立像 寛政3(1791)帽子、前掛けなど、大切にされている様子がうかがえる。像の様子はわかりにくいが錫杖、宝珠を持つ延命地蔵だろう。

DSC_0748.jpg

近づいて見ると顔の様子がひどい。自然の風化によってこうなったとはとても考えられないのだが、どういうことなのだろう?

DSC_0458.jpg

台に文字が見当たらず、裏に回ってみたら像の背面に銘があった。中央に造立年月日。下のほうに水子邑 施主は個人名が刻まれている。

DSC_0848.jpg

墓地の東側の入口付近のコンクリート塀の前に四基の石塔が並んでいた。

DSC_0849.jpg

左 勢至菩薩の文字塔 宝暦6(1756)勢至菩薩は阿弥陀三尊の中で多く見られ、単独での像塔も珍しいが、文字塔となると私は今までに見たことがない。残念ながら塔の上部が欠けているが「六年丙子年」ということで宝暦と判断できる。左脇には武州入間郡水子村講中十一人と刻まれていた。

DSC_0850.jpg

その隣 庚申塔 延享2(1745)唐破風笠付の角柱型。塔の正面上部に日月雲 梵字「ウーン」の下に「奉造立供養庚申講中二世安樂攸」下部に三猿が彫られている。

DSC_0854.jpg

塔の右側面に造立年月日。続いて講中、願主とあり六名の名前。

DSC_0856.jpg

左側面 武州入間郡水子村講中。その下に七名の名前。合わせて講中十三名だろう。

DSC_0860.jpg

奥の二基は住職の墓石。左 享保9(1724)、右 宝暦2(1752)いずれも左脇に武州入間郡水子邑とあり、施主は個人名が刻まれていた。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2016.05.10 20:51:41
コメント(0) | コメントを書く
[富士見市の石仏] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.