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カテゴリ:越谷市の石仏
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越谷市の石仏シリーズ、最終回は旧千疋村にある東養寺寺墓地になります。石仏の数が多いので二回に分けて、今日は入口付近の石仏を見てみましょう。 東養寺墓地 越谷市東町5-242 越谷レイクタウン駅の南を東西に走る広い道路「富士見通り」を東に進み、東町5丁目交差点を越えると道は急に狭くなり旧千疋村の集落に入る。余談だが、かの有名な「千疋屋フルーツパーラー」の創業者はこの村の出身らしい。交差点から400mほど東のあたりに伊南理神社があり、道路を挟んだ向かい側に墓地があった。同じ敷地内に「千疋南農村センター」がある。 入口から墓地に入ると右側に七基の石塔が並んでいる。右端は「堂宇再建記念碑」だった。 その隣 地蔵菩薩立像 弘化2(1845)四角い台の上に縦長の塔部、蓮台に丸彫り合掌型の地蔵菩薩立像が載る。 台には銘は見当たらない。塔の右側面 世話人 女五人。左側面に再建立とあり造立年月日が刻まれていた。資料では右側面と左側面が逆になっていて正面にも銘があるとしてあるが、正面にはそれらしい跡も見つからない。どうやら台の上に塔が逆に乗っているのか、ということで裏面を見たが彫りが薄いためかはっきりしなかった。 3番目 六十六部廻国供養塔 宝暦4(1754)角柱型の石塔の正面、阿弥陀三尊種子の下「奉納大乗妙典六十六部日本廻國」両脇に銘、上から天下和順 日月清明、造立年月日、千疋村 願主個人名が刻まれている。 塔の右側面に願文。その下に施主 念佛講中。左側面にも願文が刻まれ、こちらは施主が個人名となっていた。 続いて 六十六部供養塔 明和7(1770)角柱型の石塔の正面、阿弥陀三尊種子の下「六十六部供養塔」両脇に天下泰平 國土安全、造立年月日、行者 常念。隣の廻国供養塔とほぼ似た構成だが、こちらは側面には銘が刻まれていない。 5番目 地蔵菩薩立像 弘化2(1845)先ほど見た合掌型の地蔵菩薩と一緒に奉納されたもののようだ。こちらは丸彫りの延命地蔵、錫杖と宝珠を持つ。 塔の正面 手前の花入れのために全体を撮ることはできなかったが、中央付近に千疋村 女人中、左のほうに并 村々萬人講と刻まれていた。右側面には再建立とあり造立年月日、左側面に 世話人 女人と、これは先ほどの合掌型地蔵像と逆になっている。 その隣 地蔵菩薩立像 延宝6(1678)上部を大きく欠いた舟形の光背に錫杖宝珠を持つ地蔵菩薩立像を浮き彫り。四角い顔のお地蔵さまの表情は意志的で厳しいものを感じさせる。光背右脇には本願とあり個人名、左脇には造立年月日。像の両脇のあたりに多くの人たちの名前が刻まれていた。 左端 如意輪観音坐像。舟形光背に二臂の如意輪観音を浮き彫り。光背上部は前に反りかえり、江戸時代初期の特徴を示しているが、銘が確認できず、残念ながら造立年など詳細はわからない。 入口左側、再建された真新しい六地蔵と、その先には3つの部屋に分かれたお堂がたっていた。堂の中には左から大黒様、板碑、観音様が祀られているが大黒様と観音様は比較的新しいもののようだ。 中央 二十一仏板石塔婆 天正3(1575)格子の隙間から撮ってみたがうまく撮れなかった。同じような板碑を以前増森の薬師堂で見かけたことがある。解説板によると、二十一仏とは山王二十一社の本地仏のことで、このような山王信仰を表す板碑が越谷市内に八基現存するという。 入口近く、門柱のかげに新四国八十八ヶ所霊場標石 天保12(1841)弘法大師坐像を載せた角柱型の石塔、正面に「新四國八十八箇所 第六十四番」線香立てで見えなくなっているが下部の台の正面に千疋村東養寺と刻まれている。 塔の右側面に造立年月日。続いて千疋村中、願主とあり二名の名前。左側面には西新井組、その隣に是ヨリ六十五番 四丁半。(65番は草加市柿木町の東漸院)最後に、明治二十四年再建と刻まれていた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.05.23 09:31:07
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