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カテゴリ:蕨市の石仏
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蕨ではあと三か所ほど見ておきたいところがあります。今日は中央3丁目にある三蔵院の石仏を見てみましょう。 三蔵院 蕨市中央2-30[地図] JR蕨駅の800mほど南、住宅街の中の細い路地から見た三蔵院の本堂。左手の山門は閉まっていて、こちらの駐車場入り口?から境内に入る。 山門左手の風景。二つの小堂が立ち、六地蔵と丸彫りの石地蔵が祀られていた。その裏には墓地がひろがっている。山門のすぐ左脇には水場があり、その向こうに石塔が立っていた。 馬頭観音塔。造立年不明。風化が著しく、剥落部分も多い。角柱型の石塔の正面、下のほうに「馬頭觀世音」その上には馬頭観音像が彫られていたのではないだろうか。左脇に六月とあり、右脇に造立年が刻まれていたと思われるのだが、そのあたりはごっそり削れている。 左側面も剥落が見られるが、わずかに下蕨とだけ銘が残っていた。 小堂の中 六地蔵菩薩立像 嘉永2(1849)丸彫りの六体のお地蔵さまは欠損なく揃っている。 左端の台の右側面に造立年月日。右端の台の左側面に世話人とあり二名の名前、右から2番目の台の左側面に下蕨 講中と刻まれていた。 もう一つの小堂の中 地蔵菩薩立像 享保9(1724)角柱型の石塔の上、丸彫りのお地蔵さまが蓮台に乗っている。 塔の正面に偈文。右側面に四つの戒名。左側面に施主 蕨里とあり個人名。その奥に造立年月日が刻まれていた。 墓地に入ってすぐ右手が歴代住職の墓地になっている。僧侶の墓石でよくみられる卵塔はなく、文字塔、像塔、宝篋印塔などが並んでいた。 舟形光背型の墓石が全部で五基。手前から観音菩薩立像 寛文12(1672)頭上の梵字は「キリーク」か? 文字塔を挟んでその奥 合掌型の地蔵菩薩立像 宝永7(1710) 正面に二基。右 地蔵菩薩立像 延宝7(1679)きれいな舟形光背に錫杖と宝珠を手にした地蔵菩薩像を厚く浮き彫り。頭上に梵字「カ」 正面左 地蔵菩薩立像 正徳2(1712)こちらは白カビが多い。頭上は「カ」 左の列に地蔵菩薩立像 寛文4(1664)やや細長い舟形光背。頭上に梵字「カ」いずれも江戸時代初期の石仏である。 墓地の中央付近に無縁仏が集められ、さらにその奥に4基の石塔が並んでいた。 手前 二十三夜供養塔 文政13(1830)角柱型の石塔の正面 線刻された日月雲の下「廿三夜供養塔」両脇に天下泰平・國土安全。(写真右のほうに、右隣りに立つ石塔の剥落した石片が写っている。資料によると文久2(1862)の普門品供養塔らしいのだが、こちらは正面が完全に剥落、今は正体不明というしかない状態だった。) 塔の左側面に造立年月日。右側面に南 川口 ぜんかうじミちと刻まれている。 その奥に百万遍供養塔 天保4(1833)大きな角柱型の石塔の正面、上部に光明真言を梵字で表した曼荼羅。その下に「百万遍供養塔」 塔の右側面に長い願文。左側面には先祖代々一切聖靈、有無兩縁一切聖靈。さらに造立年月日。その左下に塚越村と見える。亥子角堂墓地の庚申塔にも塚越村とあったが、「塚越」は今の南町と中央まで含む広い村だったようだ。 最後は宝篋印塔 天明8(1788)屋根型の笠を持つ江戸時代中期以降のオーソドックスな宝篋印塔。塔身部四面に四仏を梵字で表す。 4 基礎には「宝筐院陀羅尼経曰・・・・」と長い願文が刻まれ、最後の面に造立年月日。続いて武州足立郡戸田領下蕨郷 三蔵院現住 慶傳。同所講中。三蔵院のご住職の呼びかけに応えて下蕨郷の講中が造立した宝篋印塔ということだろう。最後には石工名が刻まれていた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021.02.05 20:27:57
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