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2010.07.28
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カテゴリ:占い・予言
一夢庵 怪しい話 第3シリーズ 第862話 「生類憐の令」

 江戸時代にも様々な法令の類が出され下々の者が難儀をする事は珍しく無かったのですが、専制国家が暗愚な主人を頂点に戴いたときの典型的な悪法として俎上に上る事が多いのが徳川五代将軍綱吉が発令した”生類憐の令(貞享4(1687)年)”ではないかと。

 いわゆる”犬を大切にしないから跡継ぎが育たない”と言われたのが切っ掛けで犬を大切にし、もう少し拡大解釈をして無益な殺生を禁じる方向で法令が拡大され、生類憐の令となったわけです。

 まあ、結論として、”生き物の中で人間の命が最下等”とした法令なわけで、敢えて言えば、”言い出しっぺの綱吉とその関係者は除く”という但し書きが付いていたようで、将軍家-犬-士農工商という身分制度になったわけです。

 さすがに、反発した人は多く、水戸光圀(1628~1700)あたりが、犬の毛皮を大量に送り付けたりもしているのですが、逆に言えば、隠居して高齢になっていた光圀あたりでなければ異論を唱えられないあたりで、将軍の権威が揺るがなくなっていた事が分かります。

 それでいて、綱吉は必ずしも暗愚な将軍ではなかったという評価もあり、迷信に従って側近を重用しすぎた事が失政に繋がったという説もあるのですが、それほどの人物がなぜに生類憐の令に固執したのか?

 もちろん、これから後のことは、知っていても歴史のテストの点数が上がる話ではなく、かえって下がるような気がしますので、受験生の方はこのあたりで止めておくことをお勧めします。

 生類憐の令が発令されることになるには、いささか時間を遡る必要があり、”雌鳥が鳴く(=刻を告げる)と国が滅びる”を地で行く光景がそこには広がることになったりもします。

 とは言うものの、さて、どこから話したものやら ・・・

 遡っていくと、事の起こりは、観相術を良くした大和長谷寺の亮賢という僧侶が、幼い娘を抱いて道を行く男性と擦れ違った事になるのかもしれません。

 ちなみに娘を抱いて歩いていたのは、堀川通り西藪町で八百屋を営んでいた左衛門で、娘の名前は”お玉”というのですが、彼らは擦れ違った時に亮賢に呼び止められたのでした。

 で、亮賢は、自分は観相術を良くするのだが、お嬢さんの面相は位階人臣を極める高貴な相なのだが、失礼ながら八百屋の一人娘さんとすれば、自分が読み違えたのか?それにしても、 ・・・ という主旨の事を言ったようです。

 ある意味、こういった事を言われて嫌がる人というのは少数派で、”うちの娘は何やら出世しそうな顔つきだと観相を見るのが得意なお坊さんに言われたんだ”とかなんとかいったことは、成長していくお玉にも繰り返し語られたようです。

 まあ、ここまでなら良くある話とまでは言わないまでも、美人は小さい頃から美人ということが多いですし、父親の目鼻立ちも悪くなければ、娘が成人した後も美形になる確率は高く、美人が玉の輿に乗る確率は一般人よりは高くなりますから、それほど難しい予測でもなかったりはします。

 ただ、お玉の場合、女性版豊臣秀吉とでもいったくらいの驚異的な出世をすることになるのですが、意外とこの話は知られていません(笑)。

 さて、時は流れて、徳川三代将軍家光(1604~1651)の治世の事、公卿の六条宰相有純の娘の息女が落飾(女性の出家ですな)して、伊勢の慶光院門跡を継ぎ(住職になったとお考え下さい)、家光にその御礼を言上するために江戸に出府するということが起こります。

 そしてこれもまた歴史の授業では教わらない事ですが、乳母の春日局が家光の衆道癖に悩んだという噂話もあるくらい家光は普通の女性には興味が無く、大奥が家光の時代に整備されるようになったのも、とにかく数を揃えればいかに変態性欲の家光といっても気に入る娘が出てくるだろうという辺りが発端だったという話もあります。

 ところが、普通の娘を数揃えても家光の触手は動かなかったようで、試行錯誤の末、女性としては異形とも言える尼さんを見合わせたところ、これがどうも家光の嗜好に合ったようです。

 そんな、家光のところへ、元が貴族の姫様が尼僧姿でやってきたらどうなるか?

 此の辺りのことを知らないと、なぜ女には不自由していなかったであろう家光が既に出家して門跡まで継いでいる女性を”お万”と改名させて還俗させて側室にしたのか?が良く分からないのですが、家光が好む女性のタイプを知っていると、何の不思議も無くなるわけです(笑)。

 で、思わぬ仕儀で有耶無耶の内に側室に加えられてしまった”お万”ですが、何しろ相手は実質的な日本の支配者ですから逆らえるわけもなく、江戸城で生活することになり、できれば京都で生まれ育って公家文化に馴染んでいる女性に腰元になって欲しかったようです。

 この頃、お玉は16歳になっていたそうで、伝手を頼りに”お万”の方の腰元として奉公する事になり、”秋野”と改名しています ・・・ 此の辺りで、学校の歴史の勉強に熱心だった人は、”あれ?”と思うかもしれません。

 で、前述したように、家光の女性の嗜好は基本的に”普通ではないこと”ですから、八百屋の娘の”お玉”こと”秋野”もまたストライクゾーンだったようで、あっという間に手を付けて孕ましてしまい、それが男の子だったこともあって一介の腰元から”お腹様”へと一気にステップアップしてしまうわけです。

 もっとも、その段階では、上に異腹の兄たちがいたこともあって、秋野の子が将軍になる見込みは低かったのですが、それでも上州館林15万石の主にはしてもらえたようで、その時点で秋野は将軍家に連なる大名の御生母という立場に成り上がったわけですから、それだけでも驚異的な出世だと言えます。

 が、話はここで終わらず、兄たちが次々と死んでしまい、3-831”慶安太平記”で知られる慶安事件が将軍就任直後に発生した事でも知られる兄の四代将軍家綱(1641~1681)が亡くなったことで、棚から牡丹餅とでもいった調子で、秋野の息子は将軍職を継いでしまう(1681)のでした ・・・ もっとも、お玉は家光の死後は出家して桂昌院になっています。

 かくして徳川五代将軍の御生母に八百屋の娘が成り上がってしまうのですが、五代将軍綱吉(1646~1709)の奇妙なところは、マザコンなのか儒教にかぶれすぎていたのか、母親に対して他の将軍には見られないような孝道を尽くし、朝廷に人臣の最高位といっても過言ではない従一位を桂昌院に与えるように申請したりもしています。

 これは、かなり有名でも本名や生没年が不明な女性が戸籍が整備される明治の中頃まで珍しくなく、武家において男尊女卑が徹底していた時代であることを考えると、その異常さが際だってくるのですが、桂昌院は日本の事実上の頂点である将軍にかしずかれる存在へと上り詰めたのは確かな話です。

 となれば、幼き日に自分の観相を見てその成り上がりを預言した亮賢への信仰は絶大なものとなったのも不思議ではなく、実際、探し出してきて厚遇しています ・・・ そこまでならさして実害が無い奇譚の類で終われたと思われます。

 話がこじれるのが、桂昌院の信頼の厚い亮賢が護持院隆光を推挙したことで、この隆光がやったことは、現代の新興宗教形の物販やセミナーへの勧誘の原型のような気がするほど悪質だったりしますし、当時の女性達は現在の女性以上に信心深い上に迷信深かったが故に、”御説ごもっとも”となっていったようです。

 隆光の悪行の中でも最大のものが”生類憐の令”を桂昌院に吹き込んだことで、生類憐の令が実施(1687)されても一向に跡継ぎに恵まれなかったにも関わらず、のらりくらりと言い逃れをして継続させ、この天下の悪法は綱吉が死ぬまで撤回されることは無く、逆に言えば、死去すると即座に撤回(宝永6(1709)年)され無かったことにされています。

 ちなみに、事実上、江戸に呼び寄せた亮賢のために、桂昌院が将軍母子の祈祷所として天和元(1681)年に建立したのが音羽の神齢山護国寺で、たびたびの御成もあり、綱吉が統治した貞享、元禄の頃と言えば、徳川幕府の全盛期と言っても過言ではなかっただけに、寺社領の加増も多く、まさに一世風靡したようです。

 桂昌院は79歳で亡くなるのですが、能力や努力と無縁というか、それほど能力に恵まれていたわけでも努力したわけでも無いのに、美貌と運だけで上り詰めた頂点の座を十二分に満喫し、自分がどれくらい下々の者を痛めつけたのかに心を悩ますこともなかったようです ・・・ 

 怪しい話で、これまでに何度も言っているように、善行を積んだら運が向いて来るわけでは無く、非道というか身勝手な外道を繰り広げても強運な一生を満喫するという典型的な実例の一つですが、お犬様の収容所が造られた(1695)武蔵野ヶ原の中野(他に、四谷、大久保、世田谷の喜多見)の跡地には、ず~っと後に、憲兵学校や陸軍中野学校と通信隊の施設などが置かれることになります。

 なお、生類憐の令そのものに関しては、学校の歴史の授業で教わりますから、略とします ・・・ 何しろここは”怪しい話”ですから(笑)。

初出:一夢庵 怪しい話 第3シリーズ 第862話:(2010/07/22)





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Last updated  2010.07.28 01:25:44
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