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2010.07.31
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カテゴリ:食品
一夢庵 怪しい話 第3シリーズ 第865話 「お子様ランチ」

 若い衆に聞かれたのが、”ひぐらしのなく頃に”で貧乏キャラとして知られる田無美代子が”お子様ランチの旗を20本集めると幸せになれる”という願掛けのようなことをやっているけれど、あれって何か元ネタがあるんですか?という事。

 お子様ランチに関して語るときは、デパートの歴史と、世代によって大きく異なる外食の頻度がキーワードになるのですが、専門店やデパートの食堂などで外食することが年に何回という世代、月に何回という世代、週に何回という世代間格差は意外と明確に分かれています。

 それは、家庭で作る野菜炒めの肉の話にも似ているのですが、そもそも油で野菜を炒めた料理を小学校入学前から”オカズ”として食べる事が一般化するのは昭和20年代産まれくらいから後の話になり、国策として油脂や砂糖などの摂取を家庭料理で増やす事を推奨した時代もあったりします。

 つまり、”豊かな食生活=油脂類を大量に消費する食生活”とされていた時代もあったということで、油脂類と砂糖の消費促進に関しては、古巣の農林水産省よりも健康を司る某(当時)K省が熱心で、全国津々浦々で料理教室を開催して油脂、砂糖を多用する料理を普及させようとした時期が実在します ・・・

 ・・・ その意味では、”今更、あんたたちがメタボがどうこう言えた義理か?”と私なんぞが毒づく根拠にもなっているのですが、某N省も和食がベストの理想の食事であるかのように主張するようになって久しいので深入りは避けます(笑)。

 話を戻すと、野菜炒めも、当初は文字通り、サラダ油や胡麻油で野菜を炒めただけでも、現在なら中華に区分しそうなものですが、当時はハイカラな洋食の一種と認識されていたくらいで、やがて野菜以外の肉類を入れる事が本格化していくことになります ・・・ それくらい昭和の20年代くらいまでは魚はともかく肉を家庭料理で扱うことは珍しかったわけです。

 いずれにしても、野菜炒めの普及に関しては某(当時)K省が、某(当時)M省が”食育”とか騒ぐより前に、各地で開催した料理教室で油を(それ以前と比べると)ジャブジャブと使う料理を普及させた活動が震源地のようで、彼らの努力が後に成人病大国へと変貌させていったわけですから、マッチポンプと言われても仕方がないんじゃなかろうか?

 で、そんな野菜炒めにも世代間ギャップがあるというのは、昭和20年代産まれくらいだと、野菜炒めは具の無いプレーンや竹輪、薩摩揚げ(これをテンプラと称する地域もある)や板付といった魚練り物が加えられ、味は化学調味料で誤魔化されていたという地域が多数派になるようです。

 これが、昭和30年代産まれくらいになると、具の無いプレーンの野菜炒めが少数派になり、魚練りに魚肉ソーセージが加わるようになり、昭和30年代後半~40年代前半産まれくらいにおいて”野菜炒め+魚肉ソーセージ”が一つの層を形成することになります。

 が、同時にその頃から鶏肉を野菜炒めに用いる家庭も増加していったようで、昭和40年代後半産まれくらいから、食品添加物などに関するネガティブキャンペーンの影響もあって、魚肉ソーセージ離れは加速していくことになり、”野菜炒め+鶏肉(豚肉)”世代が主流になり、魚肉系野菜炒めは急速に姿を消すことになります。

 で、”1グラムあたり単価が鶏肉1円、豚肉2円、牛肉3円”といった相場になると、1億総中流と言われた昭和50年代産まれくらいからは、”野菜炒め+豚肉(ないし牛肉)”が当たり前の層が形成され、鶏肉が脱落していくことになります。

 んでもって、日米貿易摩擦で工業製品を売るなら農産物を買えということで、亜米利加産農産物を無理矢理買わされる時代が到来し、円高ドル安が加速したこともあって、昭和60年代頃から(関税が完全に撤廃されれば)鶏肉より輸入牛肉の方が安いんじゃないか?という時代が到来し、野菜炒めも牛肉炒めに野菜を加える時代になっていったのでした(笑)。

 そしてバブルの時代は、外食の多様化が一気に進んだ時代でもあり、こじゃれたイタリアンを、さも”私は幼少のみぎりから食べていたわ”といった顔で食べる連中が増加することとなり、中華料理にも四川の他に、北京、広東、上海といった地域特性があることが常識となっていったのですが、やがてベトナム料理、タイ料理、印度料理なども外食頻度の上昇に比例して普及していくことになりました。

 もっとも、バブルが崩壊すると、安い輸入食材に頼るしか選択肢が無くなる家庭が増加し、外食頻度は減少し、内食頻度は増加することになるのですが、外食で覚えたというか普及した食の多様化は内食時代にも影響を与えたようで、味付けがナントカ料理風と多様化していったのは御存知の通り。

 そんなわけで、昭和45(1975)年産まれくらいから食生活が大きく変化しているのですが、それ以前の世代にとって”ごちそう”の象徴であったビフテキが、それ以降の世代、特に牛肉輸入自由化以降の世代にとってはいつでも食べられる日常のオカズになってしまい、TVアニメ版”エヴァンゲリオン”の中でも食に関する世界間ギャップの象徴になっていたりします。

 もう一つの転機は、1970年前後に普及が始まったハンバーガーやフライドチキンに代表される亜米利加系(噛まなくても良い)ファーストフードの普及で、特にハンバーガーは円高と牛肉の輸入自由化の追い風もあって1980年代中頃から文字通り日本の食の光景を一変させていくことになり、”お子様ランチ”を衰退させていく主原因にもなっていったのでした。

 また、同時期に進行した4人程度の子供連れ家族が食事をする事を前提としたファミリーレストランもまた、デパートの食堂で”お子様ランチ”を食べる風習を衰退させる原因となり、幼児向けハンバーグ定食などが”お子様ランチ”を代替する時代が到来し、家族連れがデパートの大食堂で食事をすることを”贅沢”と考えなくなる世代が主流になっていったとも言えます。

 ちなみに、お子様ランチは、昭和5(1930)年に日本橋三越の食堂部主任の安藤太郎が当時子供に人気があった数種類のオカズを1枚の皿に盛り合わせにした子供用定食を考案して、「御子様洋食(御子様定食だったという説もある)」として30銭で出食したのが始まりとされているのですが、翌年に上野松坂屋の食堂メニューに同様のコンセプトのメニューが「お子さまランチ」として登場し、その名称が普及したわけです。

 なお、デパートでレストランを最初に始めたのは、昭和7年のデパート火災で女性のパンツ普及を加速させた事でも有名な白木屋(明治36(1903)年)で、当初は蕎麦や汁粉、寿司を売る出店程度だったのが、明治44(1907)年に100名が収容できる大食堂に改装され、定食、喫茶(サンドイッチ、和菓子、コーヒー)に対応して大成功し、他のデパートもそれに追随したようです。

 念のために、デパートが日本に初登場したのは明治38(1905)年のことで、当時の呉服店最大手であった三越呉服店が”当店は米国のデパートメントストアの一部を実現する”と主要な新聞に新聞広告で”デパートメント宣言”したのがはじまりとされるのですが、私たちがイメージするデパートの建物ということになると、大正3(1914)年にエレベーターを完備した地上5階、地下1階の日本橋本店が落成するのを待つことになります。

 が、当時はまだ都心でも未舗装の地域があった上に、畳敷きの売り場もあったことから店内土足厳禁で、入店時に下足番が履き物を預かっていたそうで、土足のままで出入りできるデパートとなると大正13(1924)年の松坂屋銀座店が始まりで、松坂屋が始めたものとしては、店員に洋装の制服を着せることやエレベーターガールの導入などがあるそうですが、3-834”カフェの女給”や3-856”電気ブラン”の回あたりも参照していただきたい。

 上野松坂屋が文字通り”お子様ランチ”を出食した昭和6(1931)年の段階で、人口10万人以上の全国30都市の内の24都市で営業面積500坪以上の規模のデパートが既に営業しているのですが、そうした急速な普及が可能だった理由として、当時の欧米のデパートの客の99%近くが女性だったのに対して、日本では家族連れで買い物をする一種のアミューズメントパークとして独自進化していったことがあったようで、”お子様ランチ”はその象徴だったとも言えます。

 つまり、デパートにファミリー客を呼び寄せる方策の一つとして”お子様ランチ”が考案され、爪楊枝と紙で作られた小さな旗(国旗爪楊枝とかフラッグピックと呼ぶそうな)が立てられている御飯の山が象徴というか定番となり、子供が喜びそうな玩具などが付けられることも多くなっていくのですが、その風習はファミレスなどにも継承されていくことになります。

 基本的にファミリー客を呼び寄せるための釣りメニューであることから、お子様ランチの採算は低かったそうで、手間暇もかかることから小学生以下といった年齢制限をしていた時代や店舗も珍しく無かったのですが、”驕れるモノは久しからず”を地でいくことになったのは御存知の通りで、最近になってやっと、食の細い女性や高齢者もターゲットに加えた”お子様ランチ”風メニューを採用する動きが出てきているようです。

 なお、私に言わせればですが、田無美代子が”お子様ランチの旗を20本集めると幸せになれる”と思っていたということは、チャンスを逃さず頑張れば、お子様ランチを(小学生の間に)20回食べられるかもしれないと考えていたということですから、”このブルジョア女め!”ということになります ・・・ 私の世代の貧乏家庭にとって”お子様ランチ”は、年に1度口にできるかどうか?、もう少し前の世代だと、小学生時代に1度口にできるかどうか?という、高嶺というか高値の花で憧れのメニューだったのでございます(マジです)。

 此の辺り、お子様ランチに旗が翻るようになった頃から、半年もかからずに20本くらい平気で集められる金持ちのボンボンやお嬢は既に存在していましたが、私的にはどこか余所の星の食生活の話だったのでございます(大笑)。

初出:一夢庵 怪しい話 第3シリーズ 第865話:(2010/07/26)





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Last updated  2010.07.31 03:34:12
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