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2010.11.12
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カテゴリ:食品
一夢庵 怪しい話 第3シリーズ 第953話 「ハリス牛乳」

 そもそも日本にはいつ頃から牛や馬がいたのか?

 馬に関しては、弥生時代以前の遺跡などから馬骨や馬具などが発見されていないことや、3世紀前半から中期の頃の日本の風俗を記録した”魏志倭人伝”に倭国には牛、馬、虎、豹、羊、鵲はいないといった記述があるのは比較的知られた話だったりします。

 牛に関しては、日本だと先土器時代くらいから牛が飼育(ないし食用と)されていた痕跡がありますから、魏志倭人伝の記述をどのくらいの精度で信じるかは微妙なところがあります。

 ちなみに、”倭国”の位置に関しては、素直に考えれば奄美大島から沖縄あたりくらいになるという説があり、琉球列島の水没というか陥没や隆起の歴史から考えて、もう少し沖縄界隈の島々の面積が大きかった時期の事と考えると牛、馬、虎、豹、羊、鵲がいなくても辻褄が合うような気がします。

 魏志倭人伝で問題になる倭国に至るまでの行程も、当時の航海技術から考えて、大陸から朝鮮半島を経由して対馬を経て九州北部に渡来するルート以外はリスクが高すぎる気がしますし、九州を北から南へ縦断するか沿岸部を船で南下して沖縄界隈にまで到達すれば、ほぼ倭人伝の日程で”倭国”に到達する事に無理がありません。

 また、そう考えると、宮崎の高千穂などに天孫降臨の神話が残るのも、沖縄界隈で大規模な地殻変動が生じて南九州へ集団移動したとすれば、津波や火山噴火などを警戒したり、九州の既存部族との抗争を想定すれば、宮崎の高千穂界隈の山岳地帯に拠点を構えてもそれほど不自然では無いのではなかろうか?

 地震や火山の噴火の影響を考慮して、さらに別の移住先を求めたのがいわゆる”東征”であり、既存の部族と敵対関係にあったから、比較的安全な瀬戸内ルートで近畿圏に到達するのではなく、四国南部を経由して紀伊半島南部に上陸し、山越えをしたのではなかろうか?

 話を戻すと、牛は先土器くらいから存在していて、馬は4世紀末頃から馬骨や馬具などが古墳の築造と連動して東国を含む広い範囲で確認されるようになり、5世紀初期頃の馬形埴輪が確認されていますから、4世紀後半に日本に定着したと考えてよさそうです。

 牛に関しては、朝廷や貴族との相性が良かったというか、古墳時代後期くらいから仏教が国教化していった関係で”肉は食うな!”ということにはなったのですが、牛乳に関しては(薬として)、蘇(そ:濃縮乳?)・酪(らく:ヨーグルト?)・醍醐(だいご:チーズかバターオイル?)などに加工して食べていて、奈良時代に入ると、おそらく朝廷の直営と考えられる牧場が摂津の味原(あじう:現在の大阪市東淀川区、大阪府摂津市)にあったようですし、平安時代には三宮(天皇・皇后・皇太子)だけでも1日約5.7リットル程度の牛乳を消費していたようです。

 一方の馬は、8世紀の文武天皇の時代に、関東に大規模な御料牧場が設けられて年間200~300頭規模の繁殖飼育が行なわれるようになっていくのですが、朝廷によって関東に設けられた御料牧場は、武士が兵力として馬を飼ったり軍用馬などを商う市場が成立させることにも繋がり、平将門の頃には少なくとも関東に騎馬武者の集団戦というジャンルが成立していたようです。

 鎌倉時代に入る少し前というか平安時代末期くらいから軍馬や荷駄として馬の飼育が全国的に盛んになっていって、平家物語などに(関西でも)騎馬武者が活躍し、騎馬対騎馬の合戦が登場するように、源平合戦の頃には侍は馬に乗って移動や戦闘ができて当たり前になっていた事が推測されますし、各地に軍馬の牧場が整備され一定の軍馬が調達できるようになっていたようです。

 これは、明治以前の日本の馬が小柄だった事と無縁とは考えにくく、西部劇のカーボウイと違って鎧甲冑に身を固め、弓矢や槍を片手に馬に乗れば長距離移動に馬の方が耐えられなかったから、途中で乗り換えながら移動する必要があったと考えられますし、そういった街道筋の馬の利用に妨害が入ることが予測できていたことや女子供を含む大人数だったことから、平家は海路しか選択肢が無かったのではなかろうか?

 まあ、その辺りは定かな話ではないのですが、武家と貴族の折衷政権のような室町時代になって、関西各地で”牛市”が開かれて牛の売買が民間でも盛んになっていったのは、搾乳が主目的では無く、この頃から、農耕用などに牛が本格的に用いられるようになっていったためのようで、武家の馬、百姓の牛といった構図になっていったようです。

 室町時代末期というか戦国時代に入ると、関東を制覇した北条氏によって朝廷の牧場も整備というか私物化され、上総~下総の広い地域が軍馬の生産拠点となり千葉氏が管理するようになるのですが、豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏の勢力が壊滅的に衰退すると千葉氏が管理していた牧場は、最終的に徳川氏の直轄地(千葉野、後の小金牧・佐倉牧)などになっていくのですが、更に時代が下がって明治に入ると”下総御料牧場”となります。

 武家が主役の江戸時代は、基本的に武芸としての馬術を奨励したようですし、馬術の稽古場として高田馬場を造ったのは有名な話ですが、8代将軍の徳川吉宗が長崎の出島経由で阿蘭陀商人からアラビア種の馬を輸入して国産馬の品種改良を試みたり、享保12年には直轄領だった千葉県南部(南房総市)の嶺岡牧で印度産の白牛を雌雄3頭飼育し(後に70頭を越える)、白牛酪(バター)を”(滋養強壮や解熱、結核)薬”として生産して、馬の治療にも利用したという話はそれほど知られていないようです。

 が、いかんせん戦がない時代が長く続くと馬を増産したり品種改良する動機というのが希薄になっていったようですし、民衆の経済活動が活発化した関係で荷馬が増え、百姓も収穫物や木材などの搬出や運送、田畑の作業などに農耕馬を利用する機会が多くなっていき、軍用馬以外の馬の方が増えていったようです。

 基本的に肉食が禁じられていた江戸時代の武家で、唯一の例外と言えそうなのが近江彦根の井伊家(桜田門外の変で暗殺された井伊直弼が有名)の家伝というか近江彦根の名物の牛肉味噌(みそ)は将軍に公式に献上されていただけでなく、大名家などに”滋養強壮の薬”といった名目で出荷されていたようで、いわゆる近江牛の元祖というか伝統を築いていくことになりますが、乳糖不耐の日本人の方が昔から多かったでしょうし、牛乳を日常的に飲む習慣がある人は極めて限られていたと考えられます。

 ただ、こうやって歴史を見て来ると、静岡県の伊豆下田の玉泉寺境内にある”牛乳の碑”が、(幕末に下田の曹洞宗の寺”玉泉寺”に設置されていた)亜米利加領事館で初代駐日総領事だったハリス・タウンゼント(1804~1878)が、”牛乳が飲みたい”と要望して、それに幕府側が応えたのが日本の牛乳文化の始まりとして記念碑にしたという説に、”へ?”という気がしないでもありません。

 というか、それ以前に、幕府はハリスの要望に応じたのか?というか、応じられるだけの乳牛がそもそも下田界隈にいたのか?という疑問がある上に、筆まめなハリスが日本滞在記(というか日記)を細かくまめに記録していまして、ハリスが下田時代に体調を崩したのは確かですが、その時、ハリスの身の回りの世話をするために雇われたのが(一部で)有名な唐人お吉で、安政5(1858)年2月の内の15日の間、お吉が下田郊外の農家から牛乳を入手してきて病床のハリスに与えた ・・・ というのは無理のある話だったりします。

 なぜ無理か?というと、とても簡単な話で、幕府の役人の斡旋で安政4年5月22日にやってきた唐人お吉が腫瘍を患っているのにハリスが気付いて、不潔と思って側に近づけなかっただけでなく、腫瘍の治療という名目で雇用して3日で家に帰してしまい、後にお吉が全快したとして復職を願い出ても取り合わずそのまま解雇しているためですが、何より、3日しか雇用されていなかったお吉が、下田近在の農家から入手して竹筒で運んだ牛乳の合計が九合八勺で価は一両三分八十八文(当時の米で3俵分の値に相当)という牛乳の碑の説は???ではなかろうか?

 ハリスの日記や当時の日本側の資料などでは、ハリスが下田に着任してそうそう牛乳を求めたのは実話ですが、少なくとも下田界隈で牛乳を飲む習慣が無いと言われて入手できず、ならば牛を飼って酪農をしようと考えたようですが、牛が農耕用で貴重な労働力であり家族同様だったこともあって異人に売る人はいないだろうと幕府の役人に断られたようです。

 母牛の調達が難航したため、ハリスは山羊の乳で妥協しようとしたようですが、伊豆はもちろん近国にもいないと大嘘で断られ、最後の手段として、香港から山羊を取り寄せて飼ってよいかどうか問答しているのですが、構内で飼うならいいだろうというハリスに対して、山羊のような禽獣を屋敷内で飼うのは亜米利加を代表する立場としていかがなものかと言いくるめられて、最終的に牛と山羊の飼育は断念したようです。

 ただし、在日中のハリスが牛乳を飲むことが無かったというのも俗説で、安政5年2月頃にハリスが高熱を出して重態となったことで、病気の治療を兼ねて2月4日から3月1日の間(の内の16日間、1日に2勺から1合2勺程度の牛乳が玉泉寺に届けられ)念願の牛乳が供給されたことで口にできたようで、担当の役人が白浜村、大沢村、青市村、馬込村といった、かなり広い範囲の村々から掻き集めたようです。

 逆に言えば、複数の農村を対象にして、幕府の御用という公権力を使って村々の名主達まで動員しても1日に2合少々の牛乳を集めるので精一杯だったのに、下田近辺の女の足で歩いていける範囲で、雇用期間の問題は無視したとしても、8合を越える量の牛乳を法を犯しながらお吉が入手できたとは ・・・ とても私には思えません(笑)。

 ちなみに、ハリスが成功した畜産は(十数頭規模になったらしい)養豚で、肉の方は鳥や猪が幕府から公式ルートで届けられていますが、自給体制もある程度ですが整えられたようです。

 いずれにしても、1856年に下田の領事館に着任し、1859年に公使に昇進して江戸麻布(あざぶ)善福寺に公使館が置かれるまでの下田の領事館時代にハリスが牛乳を飲んだというのは確かな話になります。

 その後 文久2(1862)年頃、横浜で外国人相手に阿蘭陀人のスネルが横浜で牛乳を搾乳して外国人相手に売ったのが日本の牛乳販売の最初になるようですが、日本人が飲用の牛乳を商売として売るようになるのはもう少し後の事になります。

 というか、スネルに搾乳技術や商売の方法などを教わった前田留吉によって日本で初めて牛乳が(主に外国人相手に)販売されたのは、文久3(1863)年のことで、ハリスは前年の1862年に辞任して帰国しています。

初出:一夢庵 怪しい話 第3シリーズ 第953話:(2010/11/05)





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Last updated  2010.11.12 00:18:38
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