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2011.06.21
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カテゴリ:占い・予言
一夢庵 怪しい話 第4シリーズ 第137話 「世渡り力」

 世渡りとは、多かれ少なかれ他人を頼ることであり、他人を頼る以上は頼られることも是とする”ギブアンドテイク”でないとバランスシート(収支決算書)のバランスが取れないとしたものではありますが、”テイクアンドモアテイク”を実践している人が次第に孤立していったり、類友の集団を形成しやすいのは御存知の通り。

 というか”テイクアンドモアテイク”を実践する人には学校で成績が優秀だった人が多いのですが、言葉を変えれば、”自分にとっての利用価値”で他人とのつき合い方を露骨に変える傾向が顕著にあるということで、金持ちや有力者には媚び、貧乏人や部下は踏みつけにする人と言い換えてもかまいませんが、”有能ではあっても一方的に馬鹿をみることになるから関わりたくない”といった噂は千里を駆けるようになります。

 もちろん、成り上がっていく過程の独身時代などにそういった”時期”があってもいいと私は思いますが、徹頭徹尾そういったことを死ぬまでやっているようだと”この人は何のために生まれた来たのか?”という素朴な疑問を感じますし、その反動として必ず生じる怨みの対象となる配偶者や子々孫々はたまったもんじゃないだろうなとも思います。

 少し視点を変えると、まだまだ”家”という形で事実上の身分制度が残っていた戦前の日本において、いてもいなくても良いというか、ある時期からは居ない方が良くなり、”やっかい叔父”とか”部屋住み”という言葉に象徴されるように、生家に居場所の無くなっていく男性にとって、どこか家の外に(自力で)居場所を造る必要があり、その為には”世渡り力”とでもいったものが必須だった時代があったというか今でもあると言えます。

 ちなみに、養子や婿という形で生家を出る場合、生家にそれなりの財力や影響力があれば”縁故”となる旨みが養子や婿に入る先にありますから(本人の資質はどうあれ)粗略には扱われないでしょうが、そうでもなければ、頭がよい(学歴がある)、世間が認めて稼げる資格がある(免許皆伝)といった下手な実子よりも家を栄えさせる事が可能(かもな~)と思わせるあたりがセールスポイントになり、その辺りが並か並以下ならば”人柄がよい”くらいしか売りにならないとも言えます。

 恋愛と結婚は別と未だに言われる理由の一つが、結婚には経済活動が伴うということが大きく、早い話、稼ぎのない奴が結婚できないというのは今に始まった話ではないわけで、経済格差が大きい社会ほど未婚率が上がって、妾が増加していくのは御存知の通りですが、戦前と戦後で異なるのは、経済的に男性を食わせて一家の大黒柱になる女性が増加し、奥さんより稼ぎが悪く(兼業)主夫となる男性も珍しくなくなっていることでしょう。

 結局、先祖代々の金持ちが教育に熱心な理由は、現金の類は社会が変化すれば巨万の富でも無くなることがあるのと無縁ではなく、一つに、頭の中にあることは誰も奪えないし無くすこともないということがあり、着の身着のままで逃げ出してもなんとかなるかならないかの境目になることがままありますし、疎遠な親族より仲の良い御学友の方が頼りになることがあるのはこれもまた今も昔も変わらない光景かもしれません。

 あまり学校の授業では教えてくれませんし、試験の対象にもなりませんが、学校というのは将来の人脈を築く場所でもあり、そこでの人脈を引きずる人もおいででしょうが、本格的に社会に出たときの”人脈の作り方”を学習するのに適した場でもあるわけで、いわゆる”いじめ”に関しても、人脈が作れていない子が標的にされやすいことは指摘するまでもないでしょう ・・・ ほとんどの人が、殴り返されると酷い目に遭うような相手より、一方的に殴れそうな孤立している個人に殴りかかるということです。

 逆に言えば、苛める側に回る子というのは、多数派工作を意識して行い、自分がコントロールできる集団を形成した上でターゲットに襲いかかる手順を踏んでいるということで、ひよりやすい日本人の場合は”煽動者が誰か?”を抜きにした”いじめ”対策は無意味で、イジメの対象から外れたとしても、集団からハブにされ続ける状況は変わらないのですが、苛める側も単にその時点で”数が多い側”というだけではあります。

 つまり、環境が変わって、かって苛める側にいた人間が少数派に転落すれば、苛められる対象へと転落することがありうるということですが、だいたいにおいて人を苛めて楽しいという性癖の持ち主は自分が苛められる対象になることは警戒しますから、孤立することを警戒し、状況判断をして所属すると有利なグループを見極めてすり寄るあたりから活動を開始し、そのグループで一定のポジションを得てから苛めを煽動するというステップを踏む事が多いようで、その場合も、極力、目立って標的にされないよう自分は表に出ないように心がけるようです。

 従って、”苛める側に回って苛める快感を覚えた子は、成長しても同じパターンの行動を繰り返す”傾向が顕著であり、それがオトナ社会に置けるイジメの増加の根本原因であると考えれば、学校教育の”いじめ”に対する無能無策は国を滅ぼしつつあるとも言えるのですが、”後、○年経てば卒業するから”とか”苛められる側にも問題があるから転校すればいい”とかで済ませた教育現場の罪は、ゆとり~君教育の推進と並んで重いと言えます。

 興味深いのは、学校の先生という集団は”イジメの対象になった人の割合が少ない集団”で、ある意味で”要領よく立ち回っていた連中”の集合体なわけですから、根本的に”見て見ぬ振りをする”ことや”自分には火の粉が降りかかってこないようにする”ことは先天的に得意な人の集団で、有力者に対して自分の信念に反したときにも単独では”NO!”と言ってこなかった事の方が多い連中だとも言えます ・・・ 言い方を変えれば、素直で従順な連中と言えなくもありません。

 少なくとも苛められた生徒は、学校の先生への不信感を必ず抱くため、先生という職業がオトナの理想像たりえなくなる確率が高いのですが、教師の間でもイジメが横行していて”自分と良く似ている要領の悪い先生が苛められて貧乏くじを引かされ続けている光景”を学生時代に見ていれば、やはり、あこがれの職業、あこがれの職場にはなりにくいのではないかと。

 では、かって”頑固なところもあるけれど親身に心配して対応してくれる先生”という印象が強かった時代から、なぜに”勤務時間以外は働かない”先生という印象が強い時代に変わっていったのか?といえば、極論すれば、高給優遇で銭金でしか動かない人を募集し採用し続けたた結果で、給与が良い、年金が良い、有給が多い、・・・、民間よりも残業が少なくて休みが多いというあたりで教師を選択する人材がどういった連中になるか?という見本市になっているのではなかろうか?

 いわゆる”金八先生の孤立”という現象でも知られていますが、勤務時間外に生徒のために活動する情に厚い先生がいると、勤務時間外に活動したくない先生にとっては”自分に対する父兄からの評価が下がる”ため目障りなため、自分も勤務時間外に同じようにできる範囲で活動するのではなく、活動している人の足を引っ張るこで低値安定させていった歴史があるとも言えますし、それはマスコミでユニークな教育方針やその驚異的な成果が取り上げられて話題になった先生が退職に追い込まれていく事が珍しく無い光景でも実証されているのではなかろうか?

 そのあたり、公務員の”組合専従問題”とも同根ですが、職人肌の人間にとって仕事が評価されず多数派に属する怠け者の方が優遇される組織に魅力があるわけもなく、塾の先生への転身が増加したり、端から塾の先生を目指す子も増加した結果、”学力は塾で養う”時代が到来し、学校の担任の先生の名前は覚えていなくても塾の先生の名前は覚えている若い衆が増加する奇妙な時代になっていったとも言えます。

 時は流れて、受験勉強の特別講師として塾の先生が公立学校で補習を行う(行わざるを得ない学力格差が生じている)現実というのは、それだけ無能な学校の先生が増加していることと表裏一体の現象で、同じ時間教わっても、塾の先生に教わる方が効率が良い(=テストの点が良くなる)現実が、浮世離れした教職員の詭弁を踏みつぶしているとも言えますが、専門学校や大学への進学率がかっての高校への進学率と同等水準になったあたりで、小学生レベルの学力の大学生が量産され、私にまで”ゆとり~君”呼ばわりされているわけです。

 卒業生の能力というのは、学校の先生にとっては自分の仕事の結果なわけで、それが実社会において通用しない、会社の人事担当が頭を抱えるような低水準で使い物にならない人材を量産して恥ずかしいとも思わないで”教師一人当たりの人数が多いからで、40人以下の学級単位にすれば改善する”かのような詭弁をまだ使っているあたりで、一クラスが40人以上で当たり前だった受験戦争世代から言わせればプロ失格です。

 地域によって実施そのものに反対したり、個別の学校単位の平均点での公開にさえ反対する教職員が目立つ”全国一斉テスト”にしたところで、大手の予備校や進学塾では四半世紀前から延々と行っていますし、そうなると、予備校や塾に通えない子が情報戦で遅れを取る可能性が高いだけに、それに反対するのは生徒のためというより先生自身のためではないのか?という疑念が当然のように出てくるわけで、自分の教え子の学力が全国でどのくらいというのが明示されてしまえば、担任の先生の能力も間接的に明示されてしまうのが嫌なだけなんじゃなかろうか?

 結局、学校の先生が社会から隔離された”学校”というコップの中で安住し、内向きの理屈をこねて外の社会のIT革命に象徴される激変に対応してこなかったツケが、実社会に出たときに役に立たない人材の大量発生という形で結実したわけで、しばしばネタにしている”薔薇や憂鬱が手書きでき、30~50程度の電話番号を暗記できる個性的な人材”の養成に固執した成果は、亜細亜諸国と比較しても底辺を彷徨い始めた国際比較が可能なテストの”テストの点”や、聖林映画などで英語が話せないために中国人や韓国人などに日本人役を奪われる日本人俳優の姿に明示されているのではなかろうか?

 公的な学校が世渡りの手段を教えることができなくなっているのならば、その存在意義は”既存の先生を失業させない”ことの方が大きくなっているのではなかろうか?ここはもう、分割民営化によって ・・・ って、それは各分野の塾やクラブが既にやっていて実績も上げてますね(大笑)。

初出:一夢庵 怪しい話 第4シリーズ 第137話:(20111/06/15)





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Last updated  2011.06.21 01:11:50
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