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2013.03.05
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カテゴリ:神秘学
一夢庵 怪しい話 第4シリーズ 第650話 「憑いて払って」

 海外だと悪魔憑き、日本だと狐憑きといった呼称で知られる憑依(ひょうい)現象が存在するのですが、そのかなりの部分が心の病や惚けの症状ではないかという話は以前からしているところではあります。

 つまり、精神を病んだり、惚けが進行して良く見知っている家族や知人などが奇矯な振る舞いをするようになったとき、当事者の脳の回路がおかしくなったことを受け入れるより、悪魔や狐のせいにして自分自身の精神の安定を図ろうとか目の前の状況をなんとか受け入れようとする人が古来多かったのではないかというのが怪しい話における基本的な憑依現象に関する基本的な見解になります。

 特に血族に精神を病む人が出たり惚けて奇妙な言動を起こす人が出てくると、血が繋がっているだけに遺伝子的に自分も将来あんなふうになるのではないかという不安に襲われる人も珍しく無ければ、自分の子供がそんな奇妙な言動をする責任は自分たちの遺伝子には無いと思いたい人もまた珍しく無いということで、これは親子の情愛を云々というレベルでは収まらない話になります。

 故に、”悪魔や狐に取り憑かれて奇妙な言動をしているだけだから、悪魔や狐を払うことができれば元に戻る ・・・”と考えたがる人が後を絶たない側面があり、悪魔や狐を払っている過程で仮に対象者が死亡したとしてもそれは”しかたがないこと”というあたりまで家族が割り切っていることさえ、ままあるわけです。

 憑いた狐の落とし方は、巷間に流布しているだけでも複数の方法が知られていて怪しい話においてもこれまでに幾つか収録してきましたが、中でも死者が出たことでも知られているのが松葉を燃やして出た煙で燻すという方法ですが、こんなやり方で狐が落ちるわけもなく、狂言で狐憑きのふりをしていた人が止める程度ではないかと私は思います。

 では、基督教圏における悪魔憑きとはどのような現象と考えられているのか?というと、悪魔が体内に入り込み、次第に憑依した人間の人格を乗っ取って入れ替わっていき、食べ物の好みや容貌まで変わってしまい、時にその人が知るはずもない外国語や古代語、宇宙語の類を話し始めるとされているのですが、これって、惚けが進行していく際の変化と大差がないのではないかと思わないでもありません。

 別の側面では、犠牲者が聖なるものを嫌悪し罵倒する言葉を吐き散らすようになるとか、卑猥な言葉を叫んだり暴力的になって暴れ回るようになるとかいった指摘もあるのですが、フロイトではありませんが、抑圧された性的な衝動で人がおかしくなるのは良くある話で、羅馬カトリックに限らず、宗教関係者が性的な禁欲を私生活を含む社会全般に強要し”Hなことはいけないと思います!”とやらかして抑圧している時代や地域ほど女性のヒステリーや異常な言動が増加する傾向があるのと似たような話というか共通点が多いのではないかと私は思います。

 その辺り、女性特有のヒステリー系のトラブルを解消する治療の延長上に誕生したのがバイブレーターで卓効を上げ続けているというのは比較的知られた話ですし、そもそも、21世紀に入ってからでさえ羅馬カトリック系の高位の聖職者達が信者の若い男児に男色行為を強要して騒動になり、その騒動の対応が上手くいかなかったことが羅馬教皇が任期途中という異例の退任に至った主因ではないかと噂されていることはこれまた比較的知られた話になります。

* 羅馬法王ベネディクト16世(85)が2013/02/11の声明で、高齢を理由に(2013年の)2月28日をもって退位すると表明した。

 話はややずれますが、ベネディクト16世が、いわゆる”最後の法王”になるのではないかという話は怪しい話でも”聖マラキの預言(全ての教皇に関する大司教聖マラキの預言)”の絡みで取り上げたことがありますが、この預言が17世紀頃に外部に知られるようになって以降、歴代の羅馬教皇の就任や最期などに関して見事に的中しているというか、聖マラキの預言に従って羅馬教皇を巡る人事が運営されている感さえあります。

 ちなみに、”聖マラキの預言”は12世紀の聖マラキが残した預言とされていて、1143年以降の羅馬教皇に(名称などを含めて)どのような人物が就任し、各教皇の退位後に羅馬カトリック教会がどうなるかを比較的短い文章で記載してあるのですが、外部に流出した初出が16世紀で、それまでは教皇人事に影響を与えないために教会内で上層部の一部が秘密裏に保管していたという説がある一方で、16世紀に作られた偽作とする説もある預言書ということになります。

 その辺り、在野というか占星術師兼医師(まあ、この肩書きだけでも、実態が”魔法使い”だったことがわかりますが)として知られていたノストラダムス(1503~1566)の仏蘭西王室絡みの鮮やかな預言詩の的中や、ノストラダムスの預言集である”諸世紀(いわゆる”ノストラダムスの大予言”)”の難解な内容などが世の中の話題になったことで、基督教会側としても何らかの的中率の高い預言書を世に出す必要に迫られたというもっともな指摘もあります。

 ま、その辺りの真相は私のような門外漢にとっては永遠に藪の中ですが、聖マラキの預言によれば、111番目の教皇に当たるベネディクト16世の次の教皇の時代に、羅馬カトリック教会が最後にして最大の迫害を受けて崩壊し人類に審判が下される ・・・ ということになっているわけです。

 預言の主要部分は、”羅馬聖教会が最後の大迫害を受ける時、羅馬人ペテロが教皇に就くだろう。様々な苦難の中で彼は羊たちを指導するだろう。やがて七つの丘の町は崩壊、恐るべき審判が人類下るだろう”というあたりですが、恐るべき審判が最後の審判かどうかが微妙な気がしますが、最大の問題は、聖マラキの預言が112番目の教皇で終わっていて、113番目以降の教皇に関する預言が存在しないことではないかと。

 つまり、”はい、ここで総てがお終い”とでも言うように、聖マラキの預言はぷっつりと112番目の教皇で終わっているということで、羅馬カトリック教会が113番目以降の教皇に関する聖マラキの預言を隠匿していなければ、いずれにしても聖マラキの預言は完結することになるわけです。

 話を戻すと、悪魔や悪霊の類に憑かれた人と、精神を病んだり惚けが進行している人との間に明快な境界線は存在するのか?というと、これも怪しい話で何度と無く書いてきましたが、悪魔や悪霊の類が関わっている事例では”特有の物質化現象を伴う”ことが目安になるかなと。

 狐憑きなどで老婆が天井や屋根まで飛び上がったとかいった話は、火事場の馬鹿力で知られる無意識に(肉体が物理的に破損しないように)筋肉にかけられているリミッターが外れた状態と考えれば説明可能ですし、手も触れていないのに花瓶やコップなどが宙を飛ぶポルスターガイスト現象と呼ばれることがある現象さえも、思春期の少女や少年がいる家庭で生じる事が多く、彼女や彼等が成長すると大半が収束することから、性的なものを含めて個人の内的な衝動をエネルギーとするもので、外部の悪魔や悪霊を(必ずしも)必要としないと考えられます。

 そういった超能力や霊能力の類、あるいは気の制御の関連で説明できる現象や、前述した精神的な病気、惚けの進行などで説明できる現象を取り除いていって残るのが、悪魔や悪霊の類が関わる悪魔憑きということになり、独特な腐敗臭や体重の増減など肉体の物理的に測定が可能な変化が一つの目安になります。

 羅馬カトリック教会が公式に認めた悪魔払い師がエクソシストで、教会に任命された司祭が行うため、白い服に紫色の肩掛けをすることなど一定の公式の服装と祭具を用いる決まり事があるようで、4人の見習い中の(若い)司祭を助手に使うことが認められているようです。

 後の法律的なトラブルを回避するためか、家族や医師などの立ち合いが認められることも珍しく無いのですが、悪魔払いの過程で司祭はもちろん、助手や立会人の本人しか知らない秘め事の類が悪魔に憑かれた人の口から暴露されたり、怪奇現象の頻発で精神的にまいってきたり、時に悪魔が立会人に乗り換えたりすることさえあるため、悪魔払いの儀式に関わることにはリスクが伴うとされています。

 悪魔払いの期間に関してはケースバイケースになるようですが、即日で悪魔が退散することは珍しいようで、数日に及んだり、一度は払われたふりをして潜伏しておいて司祭達が去るとまた表面に出てくることや、数年後とか数十年後に戻ってくることもあるようで、憑かれた人には別の悪魔にも憑かれやすくなる人も出てくるという説もあります。

 悪魔憑きの場合、一つの約束事として、悪魔の真の名前などが悪魔払いの儀式の最中の会話などから特定されて、ラテン語で”主、イエス基督の御名において立ち去れ”と宣告されるとゲームオーバーというか悪魔は立ち去らなければならないという説もあります。

 もっとも、基督が悪魔払いを行っていた話は新約聖書にも出てくる有名な話ですから、基督が誕生する以前から悪魔憑きはさほど珍しい現象では無かったのでしょうが、基督以前の悪魔払いにどのような決まり事があったのかは定かでは無いのですが、意外と悪魔は律儀に人間と契約をしたがり、契約に縛られると考えられていたようです。

 というか、魔法使いにとっての悪魔や魔神の類は呼び出して使役する対象ですから、勝手に人に取り憑くことができるほどの悪魔を祓うなどというもったいないことをするより、いかにして支配下において利用するかを熱心に研究することになるわけです。

 グリモワール(魔道書)などに悪魔を召喚する呪文の類が記載されていることは珍しい話ではありませんし、エロエムエッサイム(Elohim,Essaim,frugativi et appelav!)など悪魔を召喚する為の呪文が(”黒い雄鳥の腹を引き裂いて”といった儀式の部分は欠落していますが)遥か東方の日本でさえ意外と一般人にまで知られていることは説明不要でしょう。

(2013/02/18)





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Last updated  2013.03.05 05:26:11
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