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2013.07.13
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カテゴリ:食品
一夢庵 怪しい話 第4シリーズ 第759話 「盆 釜」

  江戸時代の江戸の町において、お盆の原型ができたというか、だいたいの日程や供物の類が決まっていったのですが、もちろん、地域差が大きい行事でもあり、山の中なのか海の側なのか、河川の近くなのか、市街地なのかといった地形や人口などからくる制約も大きい行事であることは言うまでもありますまい。

 盆は、仏教関連の”盂蘭盆(うらぼん)”の略語というのが定説ですが、実際には日本各地の土俗の古い信仰に端を発する風習が組み合わさって日本独自の盆の行事となっていったようですし、本来は、”御霊(みたま)”として死者や精霊を祭るだけでなく、生きている親や縁者も”生き御霊(いきみたま)”として労る時期でもあったのですが、生き御霊を労る部分はどちらかといえば中元に移った感があります。

 実際、本来の盆の期間というのは、6月晦日から7月16日までの長期間に及んでいて、正月行事に匹敵する夏場の大切な行事であったとする説もあり、日本で一番過ごしにくい蒸し暑く食欲が落ち、体力も落ち、病人や高齢者が死にやすくなる時期を無事に過ごすために宗教儀式と絡めて養生した時期とも言えます。

 それはそれとして、江戸の町の”お盆”の場合、13日の朝から盆棚(”精霊棚”、”魂棚”と呼ぶ地域もある)を作って飾り付けをして先祖の霊を向かえる準備をするあたりから始まるのですが、いわゆる”地獄の釜の蓋が開く”時間帯となり、”忌み日”が始まると解釈することもできます。

 漁師町だとお盆の期間は(本来は)殺生に繋がる出漁をせず供養をする期間とする地域が珍しく無く、出漁して怪異に巻き込まれた話もまた珍しく無いのですが、その辺りの話は以前に幾つか集録したことがあるので今回は略とします(笑)。

 話を戻すと、13日の夕方には門口で迎え火を焚いて帰ってくる先祖達の目印とするのですが、いわゆる胡瓜の馬や茄子の牛の作り物を飾る場合、胡瓜の馬は”早く先祖達が帰ってくるように”と13日の迎え火に合わせ、茄子の牛は”ゆっくりと先祖達が戻っていくように”と16日の送り火に合わせて飾るのが本筋になるようです。

 この間、地獄の大半は開店休業状態となり、亡者を煮ている大釜の類も火がおとされ釜の掃除などの手入れが行われ、獄卒達も基本的に盆休みに入るようですが、まあ、(私も実際に行って確認したわけではありませんが)たぶん、そういう状態になっているだろうと考えた人が多かったようです。

 もちろん、人はお盆だからといって死ななくなるわけではなく、逆に夏の暑さに耐えきれないのかお盆の頃に死ぬ人は増加傾向にあり、特に盆の16日前後といえば、あちらへ戻っていく人達に連れて行かれる人が多くなるといった解釈は今も昔も変わらないようです。

 逆に言えば、お盆の行事というのは、祖霊の供養というだけでなく、地獄から解き放たれた亡者達が現世から地獄へと戻っていくときに連れて行かれないように丁重に接待して送り返す儀式の側面があるということですが、注意点としては自分の直系の祖霊を招き入れることで他の赤の他人の亡者などに入り込まれないようにすることかなと。

 お盆の時期に限らず、亡者とは関わらないにこしたことは無く、生前世話になった人への恩返しだからお盆の時期に帰ってきたら接待すると考え、誰でも彼でも”かわいそうだから”という(私に言わせれば)奇妙な博愛主義で招き入れていると、親族から供養して貰えないような生き方をした人達の吹き溜まりと化すリスクが高くなります。

 いわゆる”恩を仇で返す”この時期の亡者達の話もまた珍しくありませんし、死後というのは生前の精算をする時間帯ですし、死んだからといって生前のろくでなしが急に改心して善人になるのならそもそも地獄の責め苦は不要でしょう。

 というか、あれだけ延々と地獄で死後に責め立てられるとされていながら”生き方”を変えられなかったような人達がそうそう簡単に改心するわけが無く、生きている人間からすれば、自分の生き方を見直す良い時間帯になってはいるものの、かといって親族でもない赤の他人の極悪な犯罪者や詐欺師の類の霊を招き入れる愚を犯すこともまた、”人を見る目がない”という点で、家族や子孫にまで害をもたらしかねない罪を犯しているわけです。

 その意味では、下手に供養に関わるより、海外旅行にでもぱ~っと行って留守にするという割り切り型の人の方が厄介事に巻き込まれずに済むとも言えますが、その場合、自分があちらから帰ってきたときに迎え入れてくれる子孫が居なくても文句を言わずに割り切る必要があります ・・・ なにしろ自分が生前にやらかなったことですから(笑)。

 まあ、考えてみれば、死後の世界というのは宗教によって異なるわけで、いわゆる冥府を取り仕切る神も地獄なども複数存在することになるわけですから、”お盆”を仏教の宗教行事と考えれば、基督教やイスラム教の信者などからすれば、邪教の奇習となりかねないことは指摘するまでもありますまい。

 その意味でも死んだ後にあれこれするよりも、生きている間にあれこれしなさいとしか言いようがないのですが、死者を供養することで生き方を見直し、死人が多くなる夏場の養生にも繋げると解釈すれば、お盆の風習は現在でもそれなりの価値を有しているのではありますまいか?

 もっとも、今となっては”お盆”の風習も廃れたり簡略化された地域の方が多く、本来は帰ってきている祖霊を慰めるための”盆踊り”も”納涼”や”娯楽”の側面が強くなり、死後の世界に思いを巡らす人は減少し、それが拝金至上主義的な”生き方”にも反映しているとすれば、1年の内の4日間くらい立ち止まって生き方を考えていた時代の方が多様性があったのかもしれません(溜息)。

 ま、生き方は人それぞれですから深入りはしませんが、お盆の14日の江戸の町に限らず、野外や河原に竈(かまど)をつくって”河原めし”や”盆釜”などと称して共同で煮炊きして一緒に食事をする風習があり、15日には、おこわを作って蓮の葉で包んだ蓮葉飯を来客に出したり親族に配ったりしていたのですが、いずれも今は昔の話となっていることは御存知の通り。

 四国や九州の辺りだと、かっては12~13歳の子どもたちが盆になると家の近場に竹や藁などで盆小屋(ぼんごや)と呼ばれる仮小屋を建て、そこに精霊棚を作り餅などを供えて祀り、盆の間は盆小屋に籠もって過ごし、最期に(正月の左義長と同じように)小屋を燃やす風習があったのですが、既に廃れて久しいようです。

 基本的に、”盆釜”などの風習は、祖霊に紛れて入り込もうとする無縁仏(というか”外精霊”)の接待と供養というのが本来の目的とされ、それ故に”家の外”で”家の主が関わらないで、女子供が主体になって行う”としたものですが、盆釜の方が蓮葉飯の風習より先に廃れた地域の方が多いことは指摘するまでもありますまい。

 盆釜では、御飯を”かやく御飯”などの”変わり御飯”にするのが一つの約束事で、五目御飯や、百合根などを炊き込んだ百合飯などを、柿や葛の葉、或いは豆の葉などに盛って食べていたようですが、総称として”お夏めし”と呼ぶ地域もありますから、食欲の落ちる夏場に、野外の比較的涼しい場所でレクリエーションを兼ねて栄養価の高い精力食を食べる工夫の一つだったのではないかと。

 取り締まる幕府など権力者側も、祖霊を敬うような宗教儀式に関しては制約を加えることが難しいのは今も昔も似たような話になっていたようですし、その辺りは庶民の智恵といえば智恵であり、為政者側野妥協といえば妥協の産物だったのかもしれません。

 もちろん、夏は長丁場ですから、お盆の頃だけ食事に注意するくらいでは乗り切ることは難しかったのか、江戸時代くらいから庶民の間でも”暑中見舞い”や”土用見舞い”として里芋の初物やら刺鯖(さしさば)、蓮(葉)飯など、喉を通りやすく精の付くものを贈り合うようになっていったようです。

 なにしろ冷蔵庫の無い時代ですから、生鮮食品が日持ちしにくく、乾物や塩蔵品、発酵食品などの保存食でさえちょっとしたことで駄目になりかねず、一説には、保存の利く塩蔵品などを大量に食べていたから日本人には昔から胃癌が多く、一家に一台の冷蔵庫が普及した頃から劇的に胃癌が減少していったという話もあります。

 その真偽は定かではありませんし、検証する気も無いのですが、昭和も戦後しばらくするまで、魚といえば塩鯖や目刺しくらいが主流だった地域はさほど珍しく無く、本来は魚の干物にも塩を効かせることが珍しくありませんから、確かに、御飯、漬け物、味噌(汁)、魚の干物といった江戸時代の定番の食事だと塩分摂取量が多くなります ・・・ 悪いことに、米と塩との相性も良かったりしますし(笑)。

 そういえば、盆の15日といえば、中元とも重なるのですが、中元の風習は中国由来で、もともとは、上元(1月15日)、中元(7月15日)、下元(十月15日)があり、お盆が死者の恩に感謝し供養する行事とすれば、中元などは生きている存命中に親や親族、縁者などに感謝し長寿を願う行事と言えます。

 確かに、上元の頃は寒さがピークに近づく頃で、中元の頃は暑さがピークに近づき、下元は夏場の疲れが出やすく秋から冬へと切り替わっていく時期でもあることから、体が弱っている病人や高齢者などが落命しやすい時期と重なりますから、それこそ”美味いモノでも食べて養生して下さい”というのが本来の趣旨と言われれば納得しやすい話ではあります。

 では、なぜ上元と下元が早く廃れて中元だけが今に残っていて、本来は貴族や武家などの間の風習だったものが庶民にも広がって定着しているのか?というと、業者の陰謀説があり、夏場の特需として勤務先の上司などに中元を贈る風習をデパート関係者がでっちあげたというもっともな話もあるわけです(笑)。

 堂々と仕事関係で賄賂を贈ることができるのが”中元”が生き残った主因であり、中元を贈られる側からすれば、誰が自分の派閥に属しているかという一定の目安になるメリットもあるだけに、なかなか意味深な風習ではあるのですが、終身雇用が崩れてしまえば廃れていく風習でしょうし、そもそも、冷蔵庫もエアコンも普及して夏場を快適に暮らせる時代に中元が必要かどうか微妙な気がしないでもありません。

 長くなってまいりましたので、江戸時代の中元の定番であった刺鯖などに関してはまた別の機会に。

(2013/06/25)





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Last updated  2013.07.13 02:09:23
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