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2015.03.26
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カテゴリ:民俗学
一夢庵 怪しい話 第4シリーズ 第973話 「小豆をとぐ話3」

 これを書いている段階で私が知っている”妖怪”という言葉が確認される最古の文献は、”漢書(主に前漢(前202~後8年)の歴史を記した後漢(後25~220)の班固と妹の班昭による正史。1世紀頃。)”の循史伝(じゅんしでん)ですが、内容としては”宮中にしばしば妖怪あり”ということなので”宮中に怪奇現象が生じていた”という程度の意味になり、かならずしも21世紀の日本で用いられる”妖怪”という言葉と意味が同じとは言いかねるところがあります。

 つまり、漢の時代(か或いはそれ以前)に大陸で登場した”妖怪”という言葉は”怪奇現象そのもの”を意味していたと考えられるものの、少なくとも後年の日本では”怪奇現象を引き起こすなにか”にまで意味が拡張されて用いられるようになっていたということです。

 初期の”妖怪”が”目に見えない何かによって引き起こされる怪奇現象や災厄そのもの”だったとして、おそらく仏教が伝来したのと同じ頃に日本に”妖怪”という言葉が伝播すると”怪奇現象や災厄を引き起こす目に見えない何か”という意味で用いられることが多くなっていったのではないか?と考えるとき、神道が主流だった当時の日本において新興勢力である仏教が勢力を拡大していく過程で少なからず妖怪退治が用いられたのではないか?と考えられます。

 神道の場合だと、禊(みそぎ)や祓い(はらい)で穢れ(けがれ)を除くことで災厄を回避することができるとか、災厄を引き起こす何かを神として祀り上げることで災厄を回避することができる(いわゆる”触らぬ神に祟り無し”)といった、どちらかといえば消極的で受動的な対応策が主流だったところに、仏法によって災厄や禍の元を断ち守護することもできるとする積極的というか攻撃的な仏教が渡来してきたわけです。

 極論すれば、妖怪に対して神道が”共存”とすれば、仏教は”排除”を対策として提示したわけですが、妖怪という怪奇現象や災厄に直面した人からしてみれば、”どちらが効率よく苦難を取り除いてくれるか?”が重要で、その道のプロが独占している教義の内容の詳細などはどうでもいいといえばいい話だったのではないかと。

 こうした、神道、仏教、陰陽道などが関わった災厄に対する一種の術比べの類は、”雨乞い”の競争などを含めて何度か公式にも行われた記録が残っているのですが、実際には、漢方薬など当時としては最先端で高度な医療関連のノウハウも体系的に持っていたことで仏教が勝ち残ったのではないか?と(私は)考えています。

 まあ、当時の衣食住全般に関する最先端で高度な大陸の知識や技術を仏教は伴って渡来してきたところに、神道に対する本当のアドバンテージが生じていたのではないか?ということですが、邪馬台国の卑弥呼に象徴される古代のシャーマン系の能力者に女性が多かったのに男性の天皇を頂点とする大和朝廷が成立して祭事を男性の理屈で取り仕切るようになっていったことで神道の神事が形骸化していたと考えると、仏教が渡来する以前に決着はついていたのかもしれません。

 いずれにしても、術比べの類は真言宗や天台宗といった密教系の仏教が勝ち残る形で一応の決着を平安時代にみるのですが、時代が下がるほど山岳宗教などを媒介にそれぞれのノウハウが外部に流出していき、そうした他のノウハウを取り込むことで対応というか共存を選択した勢力は生き残っていったものの、そうした宗教間の勢力争いが政治や社会情勢の変化の影響も大なり小なり受け続けていることは指摘するまでもありますまい。

 ちなみに、”幽霊”という言葉が文献に登場するのは妖怪よりも遅い5世紀頃に成立した”後漢書”の橋玄伝(きょうげんでん)辺りになるようで、遅くともこの頃には魂魄理論というか、人の死後の霊魂のありかたの一つとしての幽霊という概念が成立していたことになります。

 したがって、時系列的に考えると、”妖怪”も”幽霊”も仏教伝来とほぼ同じ頃に日本に伝来した言葉であり新しい概念区分ということになり、それが従来の日本の言葉や概念では何に相当するのか?という一種の翻訳の過程でも、日本独自の妖怪や幽霊の概念が形成されていったと考えられます。

 平安時代の記録で興味深いのは、妖怪を含む怪奇現象の被害者になるのは貴族や庶民で、怪奇現象に対抗できるというか対抗する技術を有しているとされていたのは、僧侶、医師、武士といった特定の職業に従事している人たちに限定されることです。

 なお、狭義の陰陽師は道教系の知識や技術を修得していることを前提にした朝廷の陰陽寮に所属する官吏で一種の役職名ですが、吉凶判断を含む”暦”の作成が本業となり、在野で陰陽師の技術や知識を修得して活動していた人たちは”法師”と呼び分けていたようですが、朝廷の勢力が衰退してくると官職に就いていなくても陰陽師を自称する人が増加し、江戸時代くらいまで時代が下がると、江戸の町の陰陽師は山伏と大差が無い扱いというかお札を売ったり吉凶判断をする程度で怪奇現象が生じてもさほどあてにされていません。

 ある意味で、20世紀末に夢枕獏が”陰陽師”を執筆して世に出したことで、歴代の陰陽師の中でも特異な部類の安倍晴明が陰陽師のスーパースターと化し、社会から忘れられていた陰陽師がかなりフィクションを盛られた状態でブームになったことで自称・陰陽師が激増し、平安の頃から継承する陰陽師の家系どころか門人でさえなく、修行過程が不明瞭というか一代で独習したと主張する人まで陰陽師の看板を掲げて営業していることは一部では知られた話になります。

 以前にも書いたことがありますが、明治に入って陰陽寮が廃止された段階で官職としての陰陽師も廃止されていますから、現在の陰陽師というのは私家であり自称ということにはなるのですが、栄枯盛衰はあったものの陰陽寮に人材を供給していた名家の系譜の一部は未だに健在で、いわゆる独習・陰陽師の類とは一線を画しているようです。

 さすがにこれを書いている時点では一時の狂騒的な陰陽師ブームは沈静化していて、20代の若いお嬢さんまでが”私、陰陽師!”とV番組で叫ぶ姿を目にすることはなくなりましたが、独習したとかお祖母ちゃんに教わったと主張する自称・陰陽師の類が絶えたわけでもないことは言うまでもありますまい ・・・ (溜息)。

 この辺りで小豆をとぐ話にやっと入るのですが(笑)、事の起こりは、鳥山石燕の”画図百鬼夜行”シリーズ(安永5(1776)~天明4(1784)年)をざ~っと通して見ていて、”あれれ?小豆とぎが出てこないじゃん?”と思った頃まで遡ることになります。

 ちなみに、”画図百鬼夜行”より後発ではあるものの天保12(1841)年の”絵本百物語(桃(花)山人)”には小豆とぎが”小豆あらい”として収録されているのですが、これを書いている時点で確認できている範囲だけでも東北から九州にかけて伝承が広がっているほぼ全国区の妖怪で、鳥取の”小豆こし”や岡山の”小豆さらさら”なども同種の妖怪と考えられます。

 さすがに日本人で小豆(あずき)を知らない人はいないと思いたいですが、小豆は東亜細亜原産の一年生のマメ科作物で、日本では紀元前4000年頃滋賀県の粟津湖底遺跡や紀元1世紀頃の登呂遺跡などから出土しており、古事記の豊宇気毘売神(豊受姫神)や日本書紀の月夜見尊と保食神(うけもちのかみ)の逸話などで登場するものの、赤粒木(あかつぶき)、阿加阿都岐(あかつき)といった小豆とは別の呼称と文字があてられる事例や、そもそも小豆と書いて”あずき”と読ませることに無理があることなどなどから漢字が渡来するから前に和名(あずき ・・・ 赤く煮崩れしやすいの意)があった可能性が指摘されています。

* 古事記だと保食神と同種の逸話は建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)と大宜都比売(おおげつひめ)の話になる。

 興味深いのは、穀物の総称としても用いられることがある”五穀”の概念において、中国だと最古の礼書の一つ”周礼(しゅらい)”で”麻、黍、稷(しょく)、麦、豆”としている豆が大豆と考えられるものの小豆を含むのかどうか定かではなかったり、日本でも”米、麦、粟、黍、豆(稗を入れる説もある)”として豆の定義が曖昧なことがあるのですが、いずれにしてもこれを書いている時点の日本で小豆の三大産地は丹波、備中、北海道ということになります。

* 周(紀元前1050~前256)は殷を滅ぼし秦に滅ぼされた。周礼は周代の行政制度などを記述。

 小豆の主要産地となったものの、明治以降に北海道へ小豆とぎが津軽海峡を渡ったかどうかは定かではなく、渡ったとしても青函トンネルが開通(1988)して以降のような気が私はしていますが、小豆とぎの正体については、イタチ、狐、狸、狢、獺の類説、大蝦蟇や蟇蛙が化けた説、江戸時代の小豆洗虫(あずきあらいむし。現代の茶立虫(ちゃたてむし))説、殺された小僧の幽霊説、若い男の悪戯説などなど諸説あります。

 まあ、死んだ人が小豆を洗っている姿をみかけたという話や、夜更けに”ショキ、ショキ、・・・”と小豆をとぐような音がどこからともなく聞こえるといった話のほかに、”小豆とぎましょうか、人とって食いましょか”という歌と一緒に小豆をとぐような”ショキ、ショキ”という音が聞こえるなあと思っていたら川に落ちたといった話もあるためか、小僧の幽霊説に人気があるのですが、小僧の幽霊説は、越後の高田の法華宗の寺で小豆の数を一合でも一升でも間違いなく言い当てる特技があり住職に可愛がられていた日顕(にちげん)という小僧が、嫉妬した円海(えんかい)という同宿の僧に井戸に投げ込まれて殺された後に、幽霊となって夜な夜な雨戸に小豆を投げつけるようになったといった話が、絵本百物語では、同宿の坊主に谷川に落とされて死んだ山寺の小僧が魂となった後も谷川で小豆を洗う話として採用されているようです。

 ちなみに、円海は後に死罪となり、日顕が殺された井戸から日顕と円海の言い争う声が聞こえるようになった云々といったオチの話もあるのですが、いかんせん小豆とぎは全国区なので小僧説だけでは無理があると思いますし、何よりも、そもそもの絵本百物語の”小豆あらい”にしても、鳥取県境港市の水木しげるロードの銅像54 小豆洗い”にしても、小僧というには無理がある風体をしていると思うのは私の気のせいか?

(2015/03/26)





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Last updated  2015.03.26 13:00:55
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