カテゴリ:天才
のプリンキポ島に逃れ住んだ。 やがてフランスへ渡り、ノルウエーを経て37年、最後の亡命地となったメキシコ に移った。 追放されてもトロツキーはおとなしくして書斎に引きこもってはいない。 プリンキポ島での暮らしの間にかれの主著「我が生涯」30年)、ノルウエー で「裏切られた革命」(37年)を刊行した。 だが同時に第4インターの創設に奔走し、メキシコに移ってからも、 古い同士や欧米の若いトロッキスト達とソ連スターリンの大粛清、モスクワ 裁判に対する糾弾キャンペーンを激しく展開した。 モスクワ裁判とはいわゆるスターリンの粛清裁判のことであり、彼は意見 を異にする幹部をトロッキストと呼び反ソ、反革命のテロリストときめつけた。 裁判は一方的で全員が有罪。処刑が続いた。 38年までに粛清で落命したのは一説で300万人といわれた。 当初、粛清がこれほどの規模になるとは誰も予測できないでいた。 しかし、トロツキーだけはこれが大量殺戮に発展することに気付いていたのである。 彼の最初の妻も反スターリンであったが、娘とともに殺された。 長女は自殺に追い込まれ、息子は変死した。 スターリンのトロツキー憎しは異常であったが、トロツキーの怒りも激しかった。 個人的怨嗟ではなくトロツキーはスターリニズムがナチズムと同根であること を見抜いていたのである。 スターリンは海をへだてたメキシコのトロツキーを憎みかつ怖れた。 暗殺の命を下し、1940年8月20日GPU(秘密警察)の手先が書斎で 執筆中のトロツキーにおそいかかった。 凶器はピッケル。これを頭蓋骨に打ち込んだ。 血潮は四方に飛び散り書きかけの原稿も朱に染まった。 その原稿は「スターリン」(46年刊)であった。 スターリンの共産主義の教義と現実のパラドックスがいかに深刻であるか それは表明している。 党と軍部の階級社会が「人民の平等」という理想を裏切る。 矛盾は東欧圏の諸国の搾取というかたちで更に深刻になる。 スターリンジョークは特に東欧圏で(ユダヤ系が多い)鋭い。むべなるかな。 トロツキーの予見はソ連邦の崩壊も見通している。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年12月09日 18時34分50秒
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