風狂夜話２

[天才] カテゴリの記事

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• カフカのおそるべき禁欲

  ミレナ・イェセンスカは、カフカについて次のように書いている。「かれについて多くのことを知る人間はいなかった。だれも、かれのことを特別な人間だとは思っていなかった。ところがあるとき、だれかがかれを何らかの事件で訴え、それに対してかれが自己弁護をしない、ということがあった。かれがとても誠実で男らしい顔をしていたことと、この告訴が重大でもあったことから、わたしにはその告訴がほとんど信じられなかった。誠実な顔と人をまっすぐ見つめる静かな眼をもつ青年にそのような醜いことができたと考えるのは、身を切るように辛いことだった。そこでわたしは、一体どういうことなのかその事情を調べてみた。その結果、かれが自己弁護をしない理由は、自己弁護をおこなうことで、かれ自身についての無限に美しくかつ気高いなにものかがひとに知れてしまうからだ、ということがわかったのである。それは、他の人間ならだれでも、こうした機会がなくても誇示したことであろう。わたしはいままで、このようなことを眼にしたことがなかった。のちになってわかったのだが、とにかくかれは、わたしが出会った人間のなかでもっとも注目すべき非凡な人間だった。わたしはかれの心の奥をかいま見たにすぎないけれど、わたしにこれほど激しい衝撃をあたえた人間は、いまだかつて存在しなかった。かれは、無限に気高かった。だが、それをかれは隠した。考えるに、ほかの人間たちよりも有利な立場にあることを恥ずかしく思うひとなのだ。かれは、あるがままの自分を他人に見せるようなことはできなかった。だから、もっとも美しいことを静かに内気におそるおそる、ひそかに人目を忍んでおこなったのである。本当にひそかにおこなったのだ。ひそかにおこなったかのように見せかけたのではけっしてない。かれが死んだとき……かれは、この世界のためにはあまりにも善良すぎた。わたしはこの月並な文句を恐れない。この言葉こそ、かれにもっともふさわしいからである。……わたしはかれの日記で、少年時代のある出来事を読んだ。それは、わたしがいままでに知ったなかでもっとも美しい話なので、そのことをお話しよう。子どものころ……ひどく貧しい家であった……母親が６ペニヒ銅貨（２０ヘラー）をくれたことがあった。６ペニヒを一度にもらったことなど今までになかったことなので、それはとても大きな事件だった。かれはすでに働いて金をかせいでいたから、なおいっそうびっくりした。かれはその銅貨でなにかを買おうと通りへ出ていくと、女の乞食に出会った。あまりにもかわいそうに見えたので、おどろきのあまりすぐにもらいたての６ペニヒを与えたくなった。しかし、まだあの時代の６ペニヒといえば、女乞食や小さな少年にはちょっとした大金だった。少年は、この乞食が自分に浴びせるかもしれない賞賛と感謝の気持ちをとても恐れた。また、６ペニヒ銅貨を両替することによって注意を喚起することも恐れたのだった。そこで少年は、乞食に１クロイツアーを与えると一街区全体をひとまわり走り、反対側から戻ってまた１クロイツアーを与えた。こうして、それを１０回くりかえしたのである。そして、お人好しにも１０個の貨幣をみんな彼女に与えてしまい、手元には一個も残っていなかった。それから少年はあまり気をつかいすぎたのですっかり疲れ果てとうとうたまりかねてしゃくり泣きをはじめた。これは、わたしがいままで聞いたメルヘンのなかでもっとも美しいメルヘンだと思う。これを読んだとき、わたしは、一生、この話を忘れまいと思った」「かれのお金に対する融通のきかなさといったら、女性に対する窮屈さとほとんど同程度のものです。かれの役所に対する不安も同じものです。かつてわたしは、かれにどうしても一日来てほしいと電報を打ち、電話をかけ、手紙を書いて一生懸命頼みました。当時のわたしにはどうしても必要だったのです。わたしはかれに必死で懇願しました。かれは、幾晩も眠らず、苦しみ、そしていまにも自滅しそうな手紙を何通も書いてきたのに、やって来なかったのです。その理由ですか？　かれは、休暇を願い出ることができなかったのです。とても早くタイプライターが打てるというので非常に感心していたあの局長に、わたしのところへ行くのだと言えなかったのですから。……嘘がつけないのでしょうか？　局長に嘘をつけなかったのでしょうか？かれにはできなかったのです。かれにはこの世界全体が謎であり、謎でありつづけるのです。タイプライターが早く打てる人、何人も愛人がいる人間というのが、かれには、郵便局の１クローネとか、乞食女に与えた１クローネとまったく同じように理解できないのです。理解できないのはそれが生々しい事実だからです。……わたしたちが実際にともかくも見たところでは生きていくことができるのは、わたしたちは嘘言、盲目、熱狂、オプチミズム、ある種の確信、ペシミズム、その他のいろいろなところに逃げ込んで、現実から逃避しているからに過ぎないのです。でもかれは、自分を保護してくれるところへ逃避したことがないのです。どこへも逃げたことがないのです。あの人は絶対嘘がつけない人間です。酔っぱらうことさえもできないのです。身を隠すところはどこにもなく、避難場所がないのです。だからあの人は、わたしたちなら身が護られているようなことにもすべて身を曝しているのです。服を着た人々の間にただひとり裸でいるような人間なのです。かれの禁欲は英雄的なものとは全然違うのです。どんな＜ヒロイズム＞も嘘と臆病なのですから。自分のおそるべき炯眼ゆえに、純粋さのゆえに、妥協に対する無能力ゆえに禁欲を強いられている人間、それが人間なのです」（M・ブーバー＝ノイマン　「カフカの恋人　ミレナ」）

  2011年02月23日

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• 親鸞「歎異抄」のこころ

  「歎異抄」の念仏について語った第九段は唯円と親鸞の対話という形式をとっている有名な一章である。「信心歓喜」の問題を扱っている。唯円の問いには、念仏を申しても、どうも踊躍歓喜というわけにゆかない。往生をねがわぬではないが、いそぎ浄土へという気持もない。これはどうしたことであろうか、ということであった。この問は常に凡百の民に起こりえる信仰上の悩みである。たとえば『法然上人行状画図』第二十三巻によると、同じような質問をもってきたものがあったという。「本願のうたがはしき事もなし。極楽のねがはしからぬにてはなけれども往生一定とおもひやられて、とくまいるたきこころの、あさゆふはしみじみともおぼえずと仰せ候こと、まことによからぬ御ことにて候」法然はこの質問者に対して、人師の立場にたって頓漸二機という教学をもって答えている。即ちこれらの信心の核心を聴いてたちまち悟る人と、そうはいかず、次第に解る人とがある。あなたは後者であるから、年月を重ねてよろしく精進すべきでしょうと教えたのである。さて唯円に対し、親鸞はどう答えたのであるか。「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」と言いのけた。それは人師の立場にあるものの言葉ではない。とうに人師の立場を去っていた親鸞にしてはじめて言いえる応答である。「唯円よ、よくよく考えてみると、これは天におどり地におどるほど喜んでよいことなのだ。それが喜べないということは、唯円よ、これで往生は一定と思ってよいのではあるまいか」と結んでいる。まことに不思議な言葉である。だが、続いて語る親鸞の言葉はさらに核心をついて、生々しい。「よろこぶべきこころををさへて、よろこばせざるは煩悩の所為なり。しかるに、仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおほせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり」と。この段の魅力は、この親鸞の不思議な応答を措いて外にはない。それは親鸞の言葉の巧みということではなく、法然とは全然違ったところに立ってその門下に答え、その所存を語っているからである。法然が経典の言葉や教学の体系で語られた知識によって答えるのに対し、親鸞は徹頭徹尾、自己の体験をもって語っているからである。わが身におしあてて、どうも仰せの通りにいかない。これは一体どうしたことであろうかと、さらに必死になって、本願念仏の教えにぶつけてゆく。そこで、なるほどと気がつくのは、これが喜べない私ども煩悩具足のもののことを、ちゃんと読み込んでの他力の悲願だったのかということである。この不思議な体験からくる随喜の涙はひとを魅了する。親鸞という古今未曾有の単独者を、われわれは、唯円とともに見るのである。

  2010年01月08日

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• 宮本武蔵の高弟都甲太兵衛

  晩年宮本武蔵が熊本の細川家にいたとき、殿様が武蔵に向かって、うちの家来の中でお前のメガネにかなうような剣術の極意に達した者がおるかと、訊ねた。すると武蔵が一人だけおりますと言って、都甲太兵衛という人物を推奨した。ところがこの人物は剣術がカラ下手で名高く、別に取り得というものも見当たらぬ平凡な男であった。殿様も甚だ呆れて、どこにあの男の偉さがあるのかと訊いてみると、本人に日頃の心構えをお訊ねになれば分かりましょうという武蔵の答えであった。そこで都甲を呼び、日頃の心構えというものを訊ねてみたのである。太兵衛は暫く沈黙していたが、答えて、自分は宮本先生のおメガネにかなうような偉さなど持たぬが、日頃の心構えといえば一つだけ話すべきことがあります。元来自分は剣術が下手で、また生来臆病者で、いつ白刃の下をくぐるやも知れぬと夜も心配で眠れなかったものです。とはいえ、剣の才能もなく、剣の力で安心立命をはかるというわけにもいかず、結局、いつ殺されてもいいという覚悟が出来れば救われるのだということを確信するに至った。そこで夜眠るとき顔の上へ白刃をぶら下げたりして白刃を恐れなくなるよう様々な工夫を凝らしたりした。そのおかげで、近頃はどうやら、いつ殺されてもいい、という覚悟だけは出来て夜も安眠できるようになりました。これが自分のたった一つの心構えでありますと言ったのである。すると傍にひかえていた武蔵が言葉を添えて、これが武道の極意でございます、と言ったという話である。のちに都甲は重く用いられて江戸詰めの家老までなった。そして大きな手柄をたてたという。あるとき殿様が登城のおり、他の殿様に、庭ぐらい一晩でできると威張って言ったらしい。するとその相手がそれでは今晩ぜひ作ってみせろと、揚げ足をとったらしい。殿様は蒼くなって藩邸に帰り、都甲に事情を告げた。都甲は宜しゅうございますとはっきり請合った。一晩数千の人夫が出入りした。そして翌朝になると、一夜にして鬱蒼たる森が出来上がっていたのである。宮本武蔵は剣に生き、剣に死んだ男であった。いつ殺されてもいいとは言っても、まず勝つということが第一である。自分より修業をつみ、剣に力のある相手に勝つにはどうすればいいか。あらゆる場面で、相手の心理や構えのスキをついて勝つ、利用できるものは何でも利用する。剣だけが武器ではない。ついに剣法には固定した型というものはないと、武蔵は喝破した。相手に応じて常に変化するというのが彼の考えで、型にとらわれた柳生流を非難していた。わがイチロー選手の変幻自在なヒット打法もこれに似ている。イチローもまた、武蔵のようなあらゆる変化に対応する努力の天才である。

  2009年11月27日

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• ゴッホの言葉

  「ゴッホは画家になる前に、牧師となろうとした人である。先ず、彼を捕らえたのはキリストであり、伝道者としての生活に、大きな幻滅と絶望を経験した後、この大きな渇望を画で満たそうとした人である。宗教的動機と審美的動機との統一という、彼が生きた時代には、既に不可能事になっていた事を、彼はその絵で企てた」　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　小林秀雄（「ゴッホの絵」）ゴッホは絵を描き出してから、教会も牧師も信じなかった。聖書も読まなかった。しかしキリストからは、離れることは出来なかった。ゴッホがエミール・ベルナールにあてて書いた手紙より「キリスト一人だ、あらゆる哲学者達、魔術師達その他のなかで、キリスト一人だ、永遠の生と、無限の時と不死こそ確実である、と断言し、平安と献身との必要、その存在理由を確信したのは。彼は清らかな活きた、芸術家中の最大の芸術家として、大理石も粘土も色彩も軽蔑して、生きた身体で働いた。つまりこの未聞の、殆ど考え難い芸術家は、馬鹿げた神経的な、僕ら現代人の頭脳の、頓馬な手段を用いて、絵も描かなかった。彫像も作らなかった、本も書かなかった。彼は堂々と断言した。彼は生きた人間達を作った、不死の人間達を作った。……こういう考えは、ベルナール君、僕らを遠い、実に遠いところまで導いて行く。芸術以上の高みにまで連れて行く。生きる芸術というものと、生きながら不死である芸術を垣間見せてくれる」

  2009年08月10日

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• 日本人の天才封じ

  日本の過去に口減らしのために胎児、嬰児を人為的に「間引く」という風習があった。もともと間引きといえば、作物の種を密に蒔いた際などに、芽生えてから一部を引き抜き、生育に十分な間隔を与えることを意味する。そこから影響された言葉であるが、近世までは妊娠以前に産児を調節する知識に乏しく妊娠または分娩後に頻繁に間引きが行われた。それも大概が悲惨な方法である。妊娠中であれば「もみおろし」という腹を強く揉むやり方、「掻爬」というホオズキの根を差し入れての強制的流産。こういった粗雑な方法から母体が危険にさらされることも多々あったという。しかし分娩後の間引きはもっと残酷である。膝の上や布団で窒息させるのはもちろん、「臼ごろ」といわれる石臼での圧殺、「紙はり」といって濡らした紙を顔に貼り付けて窒息させたりもした。間引いた子は自宅の床下に埋める風習もあったというが、これはせめていつかは幸せに生まれ変わるのを願う親心だともいう。間引きの風習は、明治初期頃まで続けられている。無論いまでは犯罪である。この間引きは、今日では「租の増徴や飢饉などで生活が苦しくなった農民たちによって貧困から逃れるためにやむにやまれず行われた」と説明される。だが裏の面では、古くから伝わる独特な風貌の妖怪やお化け、ろくろっ首、一つ目小僧、あるいは福助といった異形のものたち、いわゆる奇形を葬るものであった。閉ざされた村社会のなかで、過酷な労働の慰謝としての性の結果の不幸である。不幸な子を生き長らえさせるのは忍びない。親はやむを得ず奇形の子どもを間引いたのだ。ろくろっ首や一つ目小僧は決して架空の話ではなく、日本の妖怪やお化けは実際に存在したのである。そして不幸な悲しい境涯をあえてユーモラスに戯画化して伝えたのである。奇形を遠ざける日本人の習性はまた、突出した存在を嫌うことにも現れる。出る杭は打たれるという諺があるように、日本人は「平均」を何より求める。おそらく、性的タブーのうしろめたさも反映しているのだろう。しかし奇形児を生む風土は、また優性遺伝子が濃く現れ天才が生まれる可能性も高まる。しかし日本人は天才も異質なものとして排除してしまう。だから日本には真面目で優等生的な秀才はたくさんいても、抜きん出た天才（たとえば啄木や鴎外など）はなかなか成功しない。日本という国のありようが護送船団方式で、告げ口社会であり、ひとりの突出した才能や境遇を決して許さないのもこのうら悲しいタブーによるのかも知れない。

  2009年07月20日

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• ゲーテとベートーベン

  若いときはゲーテのプロイセンの高級官僚としての俗物性を揶揄して、ベートーベンの芸術家としての高踏を賞賛したものだが、この年になるとどうもそうはいかない。温泉場の公道で貴族の一行を帽子をとり、うやうやしく敬礼したゲーテに対し、かのベートーベン氏はまったく無視し、通るにまかせていた振る舞いだったという。かれは「世に皇太子は何人もいるが、ベートーベンは我輩ひとりである」と広言したともいう。さもありなん。若い頃はこの振る舞いを、世俗権力に対する芸術家の果敢な挑戦とみなしてまことに胸のすく思いであったと思う。しかし世に出て、塵芥に親しんでみるとどうもそんな奇麗ごとではないらしいと思うようになるのである。まして歴史を通じてじつにたくさんのエセ芸術家、エセ革命家が出現しているのを見てみると、かえってゲーテの偽善的な振る舞いこそ理にかなっていると感じてくる。耳を病み、あらゆる恋愛に失敗した孤独な音楽家であるベートーベンの不幸はまことに心を痛ましめるものである。しかし貴族の後援を得て、権力の後ろ盾をほしいままにしながら、その挨拶をないがしろにするということは世俗のエチケットに反する。ゲーテはむしろその傍若無人なベートーベンの振る舞いこそ、きたるべき革命時代のさまざまな病弊を生み出す原因をなすとみた。ベートーベンの超絶性は民衆の革命に力と信念を付与したが、暴力と不倫をまた正当化させたとも言えまいか。なお現代の解決できない問題である。ひとは神になりえるか。

  2009年05月02日

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• イチローの「変なオジサン節」

  イチローが相変わらずの気炎をあげた。「ぼくは（強運を）もってますね。神がおりてきました。」「日本のみなさんの視線を意識しながら、実況中継していました。」かれのここ一番の勝負強さにはほとほと呆れる。さすがの清原や佐々木（浩）もイチローの神がかりのプレーに脱帽だ。戦いすんで日が暮れて、祝勝会でのイチローの弁舌はさらに磨きがかかる。「この先輩をリスペクトしない雰囲気が世界一へおしあげた」とか、「足を引っぱりながら最後はおいしいところをいただきました。ごちそうさま。」メジャーで鍛えぬかれたジョークの連発を惜しげもない。いい選手になり、超一流のプレーをみせ、ジョークもなかなかキックがある。やはり日本の湿度の高いチームプレーになじめない男だったのであろう。だからこれだけ日本を抱きしめてしまう。悲しいことだが。「ステテコに腹巻の変なオジサン」というスタイルをこよなく愛す伝統的なアウトローの精紳だ。古くは吉良の仁吉、フーテンの寅、レオナルド熊、植木等、ビートたけしなどなど。このシニカルで実は反逆心に身をこがした男たちの系譜につらなる人物である。いちいち言うことに棘があり、裏に真心があることを隠さない。ひとにおだてられず、上座につかず、謙虚であるが、実は満腔の自信にあふれている。あの宮澤賢治がむかし言ったではないか。「デクノボーとよばれ、ほめられもせず、苦にもされず、そういう人にわたしはなりたい」と。宮澤賢治の自信を思うべし。かれは東北の片田舎ですでに世界を見通していたのだ。イチローなんかも俺はまだまだ若いと思っているに違いない。

  2009年03月25日

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• モーツアルトの時代

  １８世紀のパリ通りはゴミだらけ、中庭には小便の臭いがした。階段部屋は木が腐りかけ、鼠の糞がうずたかくつもっていた。台所では腐った野菜と羊の油の臭いがした。風通しの悪い部屋は埃っぽく、カビくさかった。寝室のシーツは汗にまみれ、ベッドは湿っていた。室内便器から鼻をさす甘酸っぱい臭いが立ち上っていた。暖炉は硫黄の臭いがした。皮なめし場から強烈な灰汁の臭いが漂ってきた。家畜場一帯には血の臭いがたちこめていた。人々は汗と不潔な衣服に包まれ、口をあけると口臭がにおいたち、ゲップとともに玉ねぎの臭いがこみあげてきた。若さを失った身体は、古チーズとすえたミルクと腐乱した腫れ物の臭いがした。川はくさかった。広場はくさかった。教会はくさかった。宮殿もまた橋の下と同様に悪臭を放っていた。百姓とひとしく神父もくさい。親方の妻も徒弟に劣らずにおっていた。貴族は誰といわずくさかった。王もまたくさかった。悪臭の点では王と獣と、さして区別はつかなかった。王妃もまた垢まみれの老女に劣らずくさかった。　　　　　　　　　　　　　　　　　ドイツの作家ジュースキント「香水」より乞食と王様とは、臭いの点ではぜんぜん変わらなかった。フランス革命以後にやっと都市の衛生管理に手がつけられて、埋める、溜めるという形で整理されたという。モーツアルトの有名な手紙「糞尿譚」の横溢は当時の反貴族的雰囲気をいささか反映しているものであろう。モーツアルトの徹底的な露悪趣味はかれの天上的な音楽とちょうどつりあうともいえる。尿にまみれ、本能のおもむくまま、まさに当時の貴族社会が上手に隠していた本音を表に出すのがかれの手紙であり、その音楽は完全なさかさまを表現する。おそらくあれだけ出鱈目な文をつづり、意味をひきはがして遊ぶのも、頭に雲霞のごとくあふれくる楽想におぼれまいとする牽制ではなかろうか。貴族社会の出鱈目とうわべのモラルについて哄笑せざるを得ないという意味で。悪臭を糊塗する「香水」としての音楽。かれの生き方は鼻をつまんで夢に疾走することではなかったか。結婚だとか、家庭だとか、生活などは末の末であった。

  2009年01月24日

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• ドクトル・カフカの孤独

  いつか父とドクトル・カフカのことを話したとき、父は彼の性格を評して、徹底徹尾孤行のひと（Eigenbrotler)であると言った。「ドクトル・カフカは、自分の食べるパンを、自分の手でこねて、自分の窯で焼きたいと思う人だ。彼は着るものも自分で作りたいのだ。彼には既製服というものが耐えられない。常套句は彼にとって胡散臭い。慣習とは、彼には思考と言語のユニフォームに過ぎず、彼はそれを屈辱的なお仕着せだとして退ける。ドクトル・カフカは首尾一貫した近代市民、つまり、生存の重みをなんぴととも分かつことのできぬ一人の人間なのだ。彼は一人で歩む。彼は進んで、自分の意志によって孤独なのだ。これこそ彼の、なんにも増して戦闘的なところなのだよ」（G・ヤノーホ「カフカとの対話」より）彼の父はカフカについて「私たちがまるで常套句の砂を詰め物にした剥製の去勢牛のように思えてくる。しかも彼が正しいのだ。」と断言する。「キリストは光に満ちた深淵です。ひとは失墜を防ぐために眼を閉じねばならぬ」「多数とはつねに指図されたことをするだけのものです。決定的なのは、身をもって流れに逆らう個人なのです。しかしいまは、こうした個人もいなくなりました。」カフカとはかく決定的に現代に逆らう個人であった。「人間はたえず膨張する大衆の真っ只中にあって、刻一刻と、ますますその孤独を深めるばかりです」

  2008年08月01日

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• グレン・グールドの自由

  グレン・グールドの演奏家としてのコンサート活動は３２歳で終了する。のちグールドはレコード録音、ラジオ及びテレビ番組、文明論など多彩なメヂィアを舞台に５０歳まで自由な活動に没頭する。かれはカナダのトロントに住み、北方の人と称して自然の中の孤独を存分に味わったといわれる。都会のしゃちこばった批評や上昇志向を笑い、コンサートの愚劣なブルジョア趣味に痛烈なからかいで応じたこの野人は「メディアの求道士」と揶揄されながら、そここそが自分を完全に隔離させ、自然のなかにあるような孤独を保証する舞台であると揚言するのである。まさにモーツァルトのような孤独を渇望したのである。かれにとって、「世界から隔離され、名声や伝説の垢じみた批評からも逃れた永遠を目指している演奏」こそ救いなのである。音楽を人生のあそびごととか一時的な愉悦ときどる貴族階級にはげしい軽蔑を表現せざるを得なかったモーツァルトのようにグールドも隠者をきどり同様な攻撃を鮮烈に実行したのである。かれのあの猿のような演奏スタイルを見よ。ベートーベンのピアノソナタ第３１番。まるで天上へのぼるような。

  2008年07月31日

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• 司馬遼太郎の「坂の上の雲」

  司馬遼太郎は満州から本土決戦に備えるため関東地方に転属。戦車小隊の隊長として米軍上陸を迎え撃つべく訓練に励んでいた。しかし米軍が房総半島から千葉・東京へ侵攻するとして千何百万人の民間人が関東北部へ避難するのは必定。戦車を出動するとしたら、この民衆とぶつかってしまう。「どうしたらよろしいか」と司馬氏は上官に訊ねた。「国を守るためだ。邪魔となる連中は戦車でヒキコロシ、敵撃滅のため前進すべし」と上官は答えたという。有名なエピソードである。「国民をヒキコロシて守るべき国とは何か」司馬氏はついに最後までこのテーマに拘泥し、脳漿をしぼった。「かれ（乃木）はよく座談のなかで電車の座席のはなしをした。『電車に乗っていると、すわろうとおもって、そのつもりで鵜の目鷹の目で座席をねらって入ってくる。ところがそういう者はすわれないで、ふらりと入ってきた者が席をとってしまう。これが世の中の運不運というものだ』希典自身、自分の一生を暗い不運なものとして感じていたらしいが、これはどうであろう」司馬氏の筆がやや辛らつに裁いている。「坂の上の雲」は明治新政府のドラマチックな高揚を秋山好古、秋山真之、正岡子規の三人の青春とダブらせて描き明快である。愛媛松山の出身というところが薩長軍閥の風に抗する自由な品性を感じさせる。司馬氏の愛好する周辺の人々である。とくに秋山好古の伊予水軍の裔らしい剛毅・恬淡の言動は明治政府台頭期の巨魁というにふさわしい。そして正岡子規の闊達自在なふるまいも、稚気愛すべし。３５歳の病没はまことに惜しい。司馬氏の「ひとびとのあし音」は子規の死後の関係者の消息を描いてまた素晴らしい。司馬氏の愛する人物のいわば余話である。

  2008年06月24日

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• 美空ひばりについて（１）

  昨夜テレビ朝日で「昭和の真相　１９８９年」を観た。３人の人物をめぐり、ビートたけしや美輪明宏が談論する。昭和天皇、美空ひばり、松下幸之助である。いずれも同じ年に亡くなっている。まさに昭和を代表する人々である。私は個人的には美空ひばりに深い思いがあり、この日「舟唄」が美空ひばりに歌われる可能性もあったことを知り、やや驚いた。そしてひばりがアレンジでなく持ち歌として本格的に歌っていれば俄然ちがった雰囲気になるであろうと想像した。私個人としては「みだれ髪」や「ひばりの佐渡情話」が一番好きなのだがそこに「舟唄」が入った可能性もあるのだ。作詞家阿久悠はデビューからその心構えとして「美空ひばりが歌わない歌」を作ることに神経をとぎすませていた。それだけ彼女の存在は大きく、同年齢の彼を魅了させていたのである。だがあるとき売れっ子作詞家の阿久があるパーティで偶然ひばりと出会いひばりから「私にもいい歌を作ってよ」と声をかけられる。阿久は茫然として立ちすくんだ。まるでそれは貫禄のある母親に用事をたのまれた息子という構図だったという。ひばりはもう自分にそれほど余裕がないことを悟っていたのかも知れない。一番脂の乗りきった阿久にいい歌を書いてほしいと思ったのかも知れない。しかし運命はふたりを離れさせ、ついにひばりは力尽き、死去する。「北の宿から」とか「舟唄」をひばりがうたっていたら、と想像するのはやはり贅沢というものなのか。阿久悠は美空ひばりの死後、作詞家人生のなかでひばりに歌を作らなかったことを後悔している。それは彼のなかの「昭和」がずっと遠ざかったことに他ならない。瀬戸内の少年がラジオを聞いてあこがれていた美空ひばりが同年齢であると気がついた時からアンビバレントな感情は途切れずに残っていたが、相手が死んでいったら、もうライバルがいないのである。一度は歌ってほしかった気持ちはあったろうが、ついにかなわず逝ってしまった。昭和天皇が１月に亡くなったときもひばりは自分の体を省みず、皇居へと記帳にいったという。（あの人もたいへんだったのよと）昭和天皇も最後の戦没者慰霊祭では、病をおしてよろよろ歩き、武道館の祭壇を仰ぎ、慰霊の声明を述べられたのだった。沖縄への慰霊はついにかなわなかったという。平成はもう来年で２０年になる。どういう総括をしたらいいのか。戦無派の私は言葉を失う。

  2007年12月27日

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• トロツキーの最期

  １９２９年2月、国外追放処分を受けたトロツキーはモスクワからトルコのプリンキポ島に逃れ住んだ。やがてフランスへ渡り、ノルウエーを経て37年、最後の亡命地となったメキシコに移った。追放されてもトロツキーはおとなしくして書斎に引きこもってはいない。プリンキポ島での暮らしの間にかれの主著「我が生涯」３０年）、ノルウエーで「裏切られた革命」（３７年）を刊行した。だが同時に第４インターの創設に奔走し、メキシコに移ってからも、古い同士や欧米の若いトロッキスト達とソ連スターリンの大粛清、モスクワ裁判に対する糾弾キャンペーンを激しく展開した。モスクワ裁判とはいわゆるスターリンの粛清裁判のことであり、彼は意見を異にする幹部をトロッキストと呼び反ソ、反革命のテロリストときめつけた。裁判は一方的で全員が有罪。処刑が続いた。３８年までに粛清で落命したのは一説で３００万人といわれた。当初、粛清がこれほどの規模になるとは誰も予測できないでいた。しかし、トロツキーだけはこれが大量殺戮に発展することに気付いていたのである。彼の最初の妻も反スターリンであったが、娘とともに殺された。長女は自殺に追い込まれ、息子は変死した。スターリンのトロツキー憎しは異常であったが、トロツキーの怒りも激しかった。個人的怨嗟ではなくトロツキーはスターリニズムがナチズムと同根であることを見抜いていたのである。スターリンは海をへだてたメキシコのトロツキーを憎みかつ怖れた。暗殺の命を下し、１９４０年８月２０日ＧＰＵ（秘密警察）の手先が書斎で執筆中のトロツキーにおそいかかった。凶器はピッケル。これを頭蓋骨に打ち込んだ。血潮は四方に飛び散り書きかけの原稿も朱に染まった。その原稿は「スターリン」（４６年刊）であった。スターリンの共産主義の教義と現実のパラドックスがいかに深刻であるかそれは表明している。党と軍部の階級社会が「人民の平等」という理想を裏切る。矛盾は東欧圏の諸国の搾取というかたちで更に深刻になる。スターリンジョークは特に東欧圏で（ユダヤ系が多い）鋭い。むべなるかな。トロツキーの予見はソ連邦の崩壊も見通している。

  2007年12月09日

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• カフカについて（３）ミレナ

  ミレナよりカフカへの追悼文ミレナはナチス・ゲシュタポに逮捕され収容所にて死去。１９４４年、５０歳。チェコのブルジョア出身のジャーナリストであった。「（世界では）カフカについて多くのことを知る人はいなかった。だれも彼のことを特別な人とは思っていなかった。ある時だれかが彼を何かの事件で訴え、それに対して彼が自己弁護をしないということがあった。彼がとても誠実で男らしい顔をしていたこと、この告訴が重大でもあったことから、私にはその告訴が殆ど信じられなかった。誠実な顔と人をまっすぐ見る静かな眼をもつ青年にそのような醜いことができたと考えるのは、身を切るようにつらいことだった。そこで私はいったいどういう事なのかその事情を調べてみた。その結果、彼が自己弁護しない理由は自己弁護をおこなう事で彼自身の無限に美しく、かつ気高いなにものかが人に知られてしまうからだ、という事がわかったのである。それは、他の人間なら誰でもこうした機会がなくても誇示したことであろう。しかし私はいままでこのような事を眼にしたことがなかった。のちになって判ったのであるが、とにかく彼は、私が出会った人間のなかでも注目すべき非凡な人間だった。私は彼の心の奥を垣間見たにすぎないけれど、私にこれほど衝撃をあたえた人間は未だかつて存在しなかった。彼は無限に気高かった。だが、それを彼は隠した。考えるにほかの人間たちよりも有利な立場にあることを恥ずかしく思う人なのだ。彼はあるがままの自分を他人に見せるようなことはできなかった。だから、最も美しいことを静かに内気に恐る恐る、密かに人目を忍んでおこなったのである。本当に密かにおこなったのである。」「彼は若いドイツ文学のもっとも重要な何冊かの本を書いた。（「審判」や「城」）それらは全く、非傾向的な形式で、今日の時代の幾世代かの戦いを包括している。……その乾いたイロニーと感覚的な透視性は、世界をあまりにも明晰な明るさで見てしまったのでもはやそれに耐えることができず、死ななければならなかった人間のものだ。」カフカはいつまでもドイツ語圏のユダヤ人として人類的苦悩を苦しんだ。ユダヤ共同体の構築を夢見ながら。それにしても４０歳。若すぎる。

  2007年12月05日

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• 川端康成について

  昨日たまたまＢＯＯＫ　ＯＦＦにて「順逆の人」という文庫本を買った。１０５円であった。著者は豊田穣。１９７０年「長良川」で直木賞を受賞した作家である。この人の川端康成論が面白かった。芭蕉の句に「野晒し紀行」で　猿を聞く人捨子に秋の風いかにというものがある。　いかにぞや、汝父に悪まれたるか、母に疎まれたるか。　父は汝を悪むにはあらじ、母は汝を疎むにあらじ。　唯是天にして、汝が性の拙きを泣け。川端康成は二歳にして父に別れ、三歳にして母に分かれた。中山義秀によれば「川端は天涯の孤児ですよ。だから愛情に飢えている。無情のように見えて、本心は人恋しいんだ。だから、亡くなった同人の子供なんかは、可愛がっていますね」といわれた。川端は原稿の依頼時や、骨董の買い方などでもさまざまな奇行で知られた。しかし年下で気心の知れた三島由紀夫が市谷で割腹自殺したとき、「勿体ない死に方をした」とくりかえしたという。三島の死でかなり動揺したと思われる。川端が日本ではじめてノーベル賞を受けたのが昭和４３年の秋。三島が自害したのが昭和４５年の秋。その翌年、昭和４６年の４月１６日。ガス管をくわえた自殺をはかった。「美しい日本の私」を書いた人とは思えないわびしい死であった。既にこの世のしがらみか、選挙の応援などしたりして、行動が尋常ではなかった。その死の感想記事のなかに、西川流舞踊の家元、西川鯉三郎氏の談話があった。「先生はお疲れになって、人間をおやめになったのではないでしょうか」という。豊田氏はいい言葉だと感心する。そのとき豊田氏は平清盛に愛され、清盛に捨てられて、世を離れた白拍子祇王の木彫りの微笑を思い浮かべたという。「相模湾の海面にきらめく夕照を渡って、川端さんは、寂光の国へ旅立ったのであろうか」と作家は思いをはせる。　拙句ひとつ　ひしがれて硝子わらむと余寒かな

  2007年12月01日

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• カフカについて（２）

  フランツ・カフカはヘルマン・カフカとユーリエ・カフカの長男としてプラハに１８８３年生まれた。１９２４年４０歳でウイーンの近郊キーアリングのサナトリウムにて死去。喉頭結核であった。カフカという姓はチェコ出身のユダヤ人に多いという。フランツは教育を一切ドイツ語で受けたが、後にユダヤ文化への知的関心を深めた。最後はパレスチナ移住を夢見る。しかし病魔はそれを許さなかった。フランツは実業家として成功した父に次のように手紙を送る。「手短にいえばぼくはカフカ家の人間ではなくて、（母方の）レービー家の者なのです。ある程度カフカ的な素質も備えておりますが、カフカ的生活意欲や征服欲に動かされはしません。…これに反してお父さんあなたは正真正銘カフカ家の人間です。…」と。「（母方の血統は）反抗心、感受性、正義感、それに不安の感情です。」と。父は彼に実業を継がそうとするが、フランツは「父親からの逃走の試み」（Ｍ・ブロート）として文学活動にいそしむ。しかしなぜか死の直前にブロートに自分の著作物を全て焼却してほしいと遺言する。ブロートはその遺言を無視してカフカの文章を公刊する。世界はすぐにこの不安にみちた文学に圧倒された。プラハのユダヤ人として、キリスト教社会に生きんが為、ユダヤ教の教えに背き、実業に励む父の姿はまた自分のドイツ語文化圏に力量を発揮する姿に同じではないか。彼の文学的営為は東欧ユダヤ人の共同体的アイデンテティと鋭く対立する。彼は「断食芸人」を発表しているが、そこで「わたしにはほかにしたい事がなかったのです」と言わしめる。カフカはさまざまな文章を残したがその人生と同じく常に未完であり、謎と迷宮に満ちている。カフカの死後、ヒトラーのナチスはドイツの政権を奪取し、ユダヤ人排斥を進め、ヨーロッパを席巻した。同じ時期ウイーンの精神分析学の創始者フロイトは「モーゼと一神教」を著し、ユダヤ人の歴史と宗教とのディレンマを解決しようとした。カフカは「（ユダヤ）聖書の民族は掟による個人の集約です。今日の大衆は、内部に掟をもたぬが故にお互いに分裂を志している。これが彼らの絶え間のない運動の原動力なのです。大衆は走り、咳き込み、時代の中へ疾駆する。どこへ行くのか、…それは進めば進むほど目的に到達できなくなる。虚空の中へ転落するだけです。人間はここにその故郷を失ったといえましょう」と。あざやかな分析ではないか。現代人はあせり、せきたてられ、なにものかになろうとしている。しかしただあおられているだけで、厳かな力を失い、威厳を失っている。共同体の「神」は死んだのである。

  2007年11月30日

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• 宮澤賢治について

  宮澤賢治の妹トシが死んだのは１１月２７日、朝からみぞれのふる寒い日だった。トシはそのとき２５歳だった。最愛の妹を亡くした賢治は押入れをあけて頭を突っ込み、布団をかぶって泣いた。おうおうと泣いた。そのときの詩が「永訣の朝」だ。けふのうちにとほくへいってしまふわたくしのいもうとよみぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ（あめゆじゆとてちてけんじや）うすあかくいっそう陰惨な雲からみぞれはびちよびちよふってくる（あめゆじゆとてちてけんじや）この‘あめゆじゆとてちてけんじや‘は雨雪をとってきてください、の花巻弁である。某政治家は東北人は不器用ですからと自分の不始末を弁明したが、花巻の詩人は「うそはなくけっして怒らずいつも静かにわらっている。そういう人にわたしはなりたい」と言った。この東北人は大正の末に毎週火曜日の夜、羅須地人協会の若い農民たちを集めて演奏会を開いている。詩人はセロとオルガンを担当していた。「劇・飢餓陣営の歌」というワルツの作詞もしている。糧食はなし四月の寒さストマックウオッチ（胃時計）ももうめちゃめちゃだどうしたのだろバナナン大将もう一遍だけ見て来ようその頃、東北地方は記録的な冷害に泣いていた。三上卓中尉（２７）らが企てた５・１５事件は東北農村の疲弊をも訴えたクーデタであった。のち軍部は増長した。その翌年、宮澤賢治は死去する。昭和８年、１９３３年であった。享年３５。もう日本は中国へ深入りして、泥沼化した戦争の行く末を知る人は少なかった。そういう時賢治は「東北の自然」にあたかも性的に愛着した。このような詩がある。その恐ろしい黒雲がまたわたくしをとらうと来ればわたくしは切なく熱くひとりもだえる北上の河谷を蓋うあの黒雲と婚すると云ひ森と野原をこもごも載せたその洪積の台地を恋ふとなかばは戯れに人にも寄せなかばは気を負ってほんとうにさうも思ひ青い山河をさながらにじぶんじしんと考えたああそのことを私は責める病の痛みや汗のなかそれらのうずまく黒雲や紺青の地平線がまたまのあたり近づけばわたくしは切なく熱くもだえるああ父母よ弟よあらゆる恩顧や好意の後にどうしてわたくしはその恐ろしい黒雲にからだを投げることができようああ友たちよはるかな友よきみはかがやく穹隆や透明な風　野原や森のこの恐るべき他の面を知るか　　　　　（「その恐ろしい黒雲が」）景観との情交ともいわれるはげしい詩だ。（吉本隆明）なんという悲運、なんという人工。賢治の試作は「死」をあとう限り引きずる。たとえば三島由紀夫も昭和２０年１０月愛する妹をチフスで失う。彼はそのとき試験勉強中であったが、ノートを抱えながら病院に通い、看病したという。妹は「吸い飲み」をされる時、三島に「お兄さんありがとう」と気力をふりしぼって云ったという。これでは詩人になるしかほかあるまい。

  2007年11月24日

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• ドストエフスキーについて（２）

  昨日に続きドストエフスキーである。ドスト氏の最晩年の長編「カラマーゾフの兄弟」は今でも、外国小説のランキングでは最高位に輝く著作であろう。登場人物も多彩である。まず旧ロシアを代表する地主のフョードルである。カラマーゾフ家の家長で物欲の権化、無神論者である。のち私生児のスメルジャコフに殺されるのだが、老いて「神はこの世に存在するのか」と次男イワンに尋ねたりする。イワンは徹底した無神論者で当時そろそろ現実的になってきた社会主義などのイデオロギーに染まりつつあった。父フョードルに即座に「神など存在しません」と答える。その言葉に感応してスメルジャコフがこの俗悪なごろつき地主を殺すという展開。神がいなければ何をしても許される、と信じながら。さてこの小説の核心でイワンは「大審問官」という叙事詩を弟アリョーシャに物語る。粗筋は中世の異端審問の嵐が吹き荒れるスペインになぜかキリストが訪れる。イエズス会の老大審問官がキリストを捕らえさせる。そして尋問する。（以下）「お前はすべてを教皇に委ねた。したがっていまやすべては教皇の手中にある。今更お前など来てくれなくともいいんだ。しかる時まで邪魔しないでくれ」キリストではなく教皇による救いがカトリックであるという。「（悪魔による）警告や指示に不足はなかったのに、お前は拒絶し、人々を幸福にしてやれる唯一の道をしりぞけた」と。「お前が渇望したのは自由な愛であって、永遠の恐怖を与えた偉大な力に対する奴隷的な歓喜ではなかった」「人は今いたるところで権力に反逆しているが、愚かな子供だ。その造反さえ持ちこたえられない自分に思い至るのだ」これはプロテスタントを批判している言葉だ。「我々はお前の偉業を修正し、奇跡と神秘と権威のうえにそれを築きなおした」この三つの力こそ地上の人々に必要な支配力だという。即ち、奇跡とは人々を組織につなぎとめ、現世の利益を保証すること。神秘とは人々の耳目をひくため、来世の存在を知らせること。そして権威とは人々に教えを守らせるため、人に罰を与える力があること。「我々はもはやお前にではなく、彼（悪魔）についているのだ。これが我々の秘密だ」とも。「ちょうど８世紀前、我々は彼からお前が憤りからしりぞけたものを、あの最後の贈り物をうけとったのだ」と。「人々が我々のために自由を放棄し、我々に服従するときこそ、はじめて自由になれることを我々は納得させてやる」カトリック教会のこの狡猾な罠、偽善。「彼らの幸福のために罪をかぶってやった我々がお前の前に立ちはだかって、言うのだ。｛できるものなら、勇気があるなら、我々を裁いてみよ｝とな」イワンはアリョーシャに大審問官の、そしてローマカトリックの欺瞞を知りながら、人々の幸福のためその先頭に立っていたこと、それがキリストのためにもなされたことを説明する。この瞠目すべき教会によるキリスト批判はしかしあらゆる人類の悲喜劇を象徴する。ドスト氏はロシアの革命権力下での直接体験の前にナロードニキの革命思想と運動がそのまま発展し、権力を奪取したとき、革命権力と国家宗教とが合体した最高権力者（大審問官）が生まれることを洞察していた。自由を差し出さない「異端者」を火あぶりにする「赤色テロ」を想定した。権力獲得後の革命国家における独裁党派指導者の複雑な人間像を描出した。しかしドストエフスキーは１８８１年に死去。まさにその年、アレクサンドル２世がナロードニキによって暗殺された。レーニンやスターリンが「社会主義」の旗の下大虐殺を行うのもすぐ先である。「美しい理想で醜い行為をなす」典型である。キリスト教２０００年の歴史がその上で君臨する。

  2007年11月21日

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• ドストエフスキーについて（１）

  今夜はドストエフスキーである。ロシアの文豪というか世界文学史上の巨星である。力が入る。２回にわける。まずドスト氏（以下同）はどういう生涯を送ったのか。１８２１年１１月１１日モスクワに生まれる。１８８１年２月９日ペテルブルクで６０歳で死去。晩年の思想的集大成ともいうべき「カラマーゾフの兄弟」を書き上げて数ヶ月後である。いわば１９世紀ロシアの一切合切を呑み込んだような人である。ドスト氏は１５歳までモスクワの生家（父は貧民救済病院の医師）で暮らした。作家生活の舞台はその後のペテルブルクに置く。１８４６年処女作「貧しき人々」が激賞される。（２５歳）その後やや停滞し、社会主義サークルに入り、１８４９年官憲に逮捕される。当時のニコライ１世の手により、８カ月を監獄で過ごし、２０名の仲間とともに死刑を言い渡される。その死刑執行の直前皇帝の恩赦により判決が変更され死刑を免れる。しかし多くの仲間は精神錯乱に陥ったり、一夜にして白髪になるなどして、厳しい刑罰の報いを得た。これはニコライ１世の仕掛けた革命派に対する残酷な芝居ともいわれる。のち１８５４年までシベリアで服役。そのときの体験が「死の家の記録」に描かれている。刑期終了後、兵士として勤務を終えて、１８５８年ペテルブルクに帰還する。この間に社会主義者からキリスト教的人道主義へ転向したとされる。１８６６年「罪と罰」を発表。高く評価される。無神論主義者のラスコーリニコフの思想的変遷をシベリア流刑まで追及する。ドスト氏は流刑時代のてんかん（側頭葉てんかんの一種、恍惚感を伴う）の悪化や、賭博好きなどで貧乏暇なしであった。１８８０年「カラマーゾフの兄弟」の長編を未完成ながら脱稿。その数ヶ月後家族に看取られながら６０歳で亡くなる。ロシアのみならず、世界の思想・文学に与えた影響は計り知れない。アインシュタインは「ドストエフスキーはどんな思想家が与えてくれるものよりも多くのものを私に与えてくれる。ガウスよりも」哲学者ウィトゲンシュタインは「カラマーゾフの兄弟」を５０回以上も熟読したとされる。フロイトは論文「ドストエフスキーと父親殺し」を著した。たしかに一時期、深刻な顔をして思念する人をドストエフスキーしていると揶揄することがあった。特に社会革命に挫折した青年にとって、ドスト氏のキリスト教、わけてもロシア正教に基づく魂の救いは大きな希望であった。ドスト氏はまた日本にロシア正教を伝道する大主教ニコライ・カサートキンと会うのを楽しみにしていたともいう。以上第１回である。

  2007年11月20日

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• ニーチェについて

  フリードリッヒ・ウィルフェルム・ニーチェは１８４４年ドイツ・ザクセンに生まれる。１９００年没。享年５６歳。１８８８年最後に執筆した「アンチクリスト」は彼のキリスト教批判における集大成であり、「あらゆる価値への価値転倒」のなかから集約したものである。その翌年精神錯乱に陥った。母や妹の介護のもとで１１年間生き延びた。つまり「アンチクリスト」は創作可能な晩年に思索を傾けつくした書物である。「神は死んだ」とヨーロッパ・キリスト文明を厳しく断罪したニーチェとはいかなる哲学者であったのか。彼はルター派の裕福な牧師の子として生まれ、ドイツのボン大学、ライプチヒ大学を経て古典文献学の権威フリードリッヒ・リッチュルと出会う。「悲劇の誕生」をデビュー作として反時代的哲学の構築をはかり、実存主義の先駆者、あるいは「生の哲学」の祖としてニヒリズムの大立者という影響力を現代にも発揮してきた。２０世紀の文学・哲学に与えた思想的インパクトは計り知れない。ハイデッガー、バタイユ、フーコー、デリダといった人々に多大な影響を与えた。さて彼の「アンチクリスト」は何を訴えているのか。日本でのキリスト教信者は人口の１％程度といわれる。ふだんはほとんど意識にのぼらない宗教である。だがニーチェは「私たちは無意識のうちにキリスト教的な考え方、行動様式に巻き込まれている。」と断言する。洋の東西を問わず。そしてキリスト教の「神は死んだ」ととなえた。まずキリスト教とユダヤ人との関係を検証する。なぜならキリスト教はユダヤ民族から生まれたからであり、ユダヤ人イエスのユダヤ教批判から出発したからである。しかし新約聖書には「救いはユダヤ人から来る」という言葉があり、実はユダヤ教の性質を徹底したものだともいわれる。キリスト教はイエスを「人類の救世主」という存在に神聖化した。ニーチェはこの傾向を「ルサンチマン道徳」として「高貴な道徳」を弱い人間の恨みつらみでこき下ろそうというユダヤ的陰謀のようなものだと告発する。ユダヤ民族のデカダンス（退廃）に味方し、利用し、権力を握るやり口を鋭く批判する。彼らは人生を肯定する人たち（高貴な人々）に対抗するためデカダンスを演じる。その天才がパウロの始めたキリスト教であると。つまり教会をつくり、悩める弱者を信者として「神をうやまい、祈り、天国への道を求めよ」と導くのである。「すべての幸福は神のおかげ」「すべての不幸は神を信じないこと」と僧侶はいう。ユダヤの僧侶たちはいつわりの「神」や「道徳」をでっちあげ、真実を隠してきた。そして哲学者も教会の権威付けに協力してきた。たとえば「道徳的世界秩序」などを容認するなど。要するに「人間がすべきこと、してはならないことは神の意思によってきめられている」という話で僧侶が、民族、時代、個人などを全て「自分たちに有利かどうか」で測るというよこしまなシステムを築いたことを容認した。人生のあらゆる場面で僧侶が変な儀式をつくり、人から金をゆすり取る。これはカトリックもプロテスタントも変わらない。日本の既成宗教も新興宗教も同じである。僧侶たちは教会（教団）を組織して幻想の世界をでっちあげ、人民を搾取する。まことにあざとい詐欺師たちである。たとえばイエスはニーチェによれば下層民、仲間外れ、犯罪者をあおってユダヤ教が支配する社会を攻撃したアナーキストであるという。そもそも「聖者の伝承」などは作り話で矛盾だらけ信ずるに足りない。とそしてついにキリスト教信者の精神構造の核をつく。それは現実に対する抵抗力の放棄に他ならないと。彼らは現実世界とは別の「愛」という場所に逃げ込む。苦悩や刺激に耐えられなくなったからである。教会は彼らを利用あるいは信服させるのになにやら怪しい「神」を持ち出し、興奮させることが必要であった。イエスの像が「新約聖書」のなかで矛盾しているのも初代キリスト教団がそれまでの権威「ユダヤ教の神学者」に対抗するために「再臨」や「最後の審判」といったイエスの教えと全く関係ない言葉ででっち上げたためという。「聖なる大嘘」は中国の孔子、古代インドの「マヌ法典」、イスラムのマホメット、キリスト教など、すべての宗教に共通するとも。ではこの不信や矛盾にみちた社会を維持・存続させるにはどうすればいいのか。やはり長い年月を経た経験と知恵に頼る法、掟とでもいうものであろう。その正当性はどう理由づけるのか。長老の啓示と伝統により意識的なもの（イデオロギー）を排除すること。民族が生きていく最良の道であろう。キリスト教と無政府主義は破壊のみを追及する。教会は裏で支配層と手を組んでいる。まるで現在の日本の状況にあてはまるが。ニーチェは鋭く弾劾する。「キリスト教会は神聖な理想でもってあらゆる血を、あらゆる愛を、人生へのあらゆる希望をのみほしてしまった」と。

  2007年11月17日

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