カフカのおそるべき禁欲
ミレナ・イェセンスカは、カフカについて次のように書いている。「かれについて多くのことを知る人間はいなかった。だれも、かれのことを特別な人間だとは思っていなかった。ところがあるとき、だれかがかれを何らかの事件で訴え、それに対してかれが自己弁護をしない、ということがあった。かれがとても誠実で男らしい顔をしていたことと、この告訴が重大でもあったことから、わたしにはその告訴がほとんど信じられなかった。誠実な顔と人をまっすぐ見つめる静かな眼をもつ青年にそのような醜いことができたと考えるのは、身を切るように辛いことだった。そこでわたしは、一体どういうことなのかその事情を調べてみた。その結果、かれが自己弁護をしない理由は、自己弁護をおこなうことで、かれ自身についての無限に美しくかつ気高いなにものかがひとに知れてしまうからだ、ということがわかったのである。それは、他の人間ならだれでも、こうした機会がなくても誇示したことであろう。わたしはいままで、このようなことを眼にしたことがなかった。のちになってわかったのだが、とにかくかれは、わたしが出会った人間のなかでもっとも注目すべき非凡な人間だった。わたしはかれの心の奥をかいま見たにすぎないけれど、わたしにこれほど激しい衝撃をあたえた人間は、いまだかつて存在しなかった。かれは、無限に気高かった。だが、それをかれは隠した。考えるに、ほかの人間たちよりも有利な立場にあることを恥ずかしく思うひとなのだ。かれは、あるがままの自分を他人に見せるようなことはできなかった。だから、もっとも美しいことを静かに内気におそるおそる、ひそかに人目を忍んでおこなったのである。本当にひそかにおこなったのだ。ひそかにおこなったかのように見せかけたのではけっしてない。かれが死んだとき……かれは、この世界のためにはあまりにも善良すぎた。わたしはこの月並な文句を恐れない。この言葉こそ、かれにもっともふさわしいからである。……わたしはかれの日記で、少年時代のある出来事を読んだ。それは、わたしがいままでに知ったなかでもっとも美しい話なので、そのことをお話しよう。子どものころ……ひどく貧しい家であった……母親が6ペニヒ銅貨(20ヘラー)をくれたことがあった。6ペニヒを一度にもらったことなど今までになかったことなので、それはとても大きな事件だった。かれはすでに働いて金をかせいでいたから、なおいっそうびっくりした。かれはその銅貨でなにかを買おうと通りへ出ていくと、女の乞食に出会った。あまりにもかわいそうに見えたので、おどろきのあまりすぐにもらいたての6ペニヒを与えたくなった。しかし、まだあの時代の6ペニヒといえば、女乞食や小さな少年にはちょっとした大金だった。少年は、この乞食が自分に浴びせるかもしれない賞賛と感謝の気持ちをとても恐れた。また、6ペニヒ銅貨を両替することによって注意を喚起することも恐れたのだった。そこで少年は、乞食に1クロイツアーを与えると一街区全体をひとまわり走り、反対側から戻ってまた1クロイツアーを与えた。こうして、それを10回くりかえしたのである。そして、お人好しにも10個の貨幣をみんな彼女に与えてしまい、手元には一個も残っていなかった。それから少年はあまり気をつかいすぎたのですっかり疲れ果てとうとうたまりかねてしゃくり泣きをはじめた。これは、わたしがいままで聞いたメルヘンのなかでもっとも美しいメルヘンだと思う。これを読んだとき、わたしは、一生、この話を忘れまいと思った」「かれのお金に対する融通のきかなさといったら、女性に対する窮屈さとほとんど同程度のものです。かれの役所に対する不安も同じものです。かつてわたしは、かれにどうしても一日来てほしいと電報を打ち、電話をかけ、手紙を書いて一生懸命頼みました。当時のわたしにはどうしても必要だったのです。わたしはかれに必死で懇願しました。かれは、幾晩も眠らず、苦しみ、そしていまにも自滅しそうな手紙を何通も書いてきたのに、やって来なかったのです。その理由ですか? かれは、休暇を願い出ることができなかったのです。とても早くタイプライターが打てるというので非常に感心していたあの局長に、わたしのところへ行くのだと言えなかったのですから。……嘘がつけないのでしょうか? 局長に嘘をつけなかったのでしょうか?かれにはできなかったのです。かれにはこの世界全体が謎であり、謎でありつづけるのです。タイプライターが早く打てる人、何人も愛人がいる人間というのが、かれには、郵便局の1クローネとか、乞食女に与えた1クローネとまったく同じように理解できないのです。理解できないのはそれが生々しい事実だからです。……わたしたちが実際にともかくも見たところでは生きていくことができるのは、わたしたちは嘘言、盲目、熱狂、オプチミズム、ある種の確信、ペシミズム、その他のいろいろなところに逃げ込んで、現実から逃避しているからに過ぎないのです。でもかれは、自分を保護してくれるところへ逃避したことがないのです。どこへも逃げたことがないのです。あの人は絶対嘘がつけない人間です。酔っぱらうことさえもできないのです。身を隠すところはどこにもなく、避難場所がないのです。だからあの人は、わたしたちなら身が護られているようなことにもすべて身を曝しているのです。服を着た人々の間にただひとり裸でいるような人間なのです。かれの禁欲は英雄的なものとは全然違うのです。どんな<ヒロイズム>も嘘と臆病なのですから。自分のおそるべき炯眼ゆえに、純粋さのゆえに、妥協に対する無能力ゆえに禁欲を強いられている人間、それが人間なのです」(M・ブーバー=ノイマン 「カフカの恋人 ミレナ」)