孫の急病 & チュニジア旅行記 9日目(最終)
昨夜 10時過ぎに 次男夫婦は 東京から戻って来た。孫は ママに飛びついて 今まで 溜まっていたのか 一気に 中国語で話をした。後で聞くと イェイイェイと ナイナイが 風邪を引いてはいけないと 外へ連れて行ってくれなかったので 面白くなかったと告げていたようである。お風呂に入って寝てから 突然 高熱をだして お腹が痛いと言い出し 下痢をするやら 嘔吐するやら 大騒ぎになった。朝一番に 病院に行き 薬を貰って来たが お昼過ぎまで お腹が痛いと泣いていた。明日の飛行機で 上海へ帰国する予定なのに どだい無理のようである。急遽 JALに電話を入れて 予約の変更を申し入れたが 中国で購入した来たチケットは 二週間FIXで 変更は効かないとのこと。何とかならないかと相談したら 医師の診断書をFAXするようにと指示されまた 病院へ行き貰って来た。診断書には 急性気道炎 及び 急性胃腸炎で 一週間の安静療養が必要となっていたので JALは 来週 22日までの延長を認めてくれて 助かった。次男は 仕事の都合で 明日 帰らなければならないが どうぞ 一週間のうちに ママと一緒に帰国できるよう 早く元気になって欲しいものである。そんな訳で 今日は エアロビックスも お休みにした。仕方ない。第9日目 11月30日いよいよ チュニジアを離れる日となった。今朝は 3:00に起床して 4:00出発で チュニス・カルタゴ空港へ向う。シェラトン・ホテルは 我々と もう一組の日本の団体のため 3:00に レストランを開けて 簡単な朝食をサービスしてくれた。さすがである。昨日 荷造りする時に 添乗員さんから スーツケースの重量は 出来るだけ制限の20kg以内にして欲しい、万が一 オーバーしても すぐ抜き取れるよう 予め 用意するようにと言われていた。部屋に 秤はなかったが 二人とも かなり重たい いざと言う時のために オリーブ油の瓶 3本を すぐ出せるようにして 空港へ行った。チェックイン・カウンターで 私の荷物は 38kgと倍近いオーバーであったが そのまま コンベアに乗って奥へ入ったので シメシメと思っていたら ヨメさんの荷物は 28kgで ダメと言う。ガイドのヨハンさんが 窓口と交渉してくれたが 超過料金15,000円を払えと言って引かない。二人合わせても 20,000円のお土産しか買ってないのに ここで15,000円も取られたのでは 何のために 苦労して値切ったのか意味がなくなる。抜き取る用意のオリーヴ油は もう先に行ってしまっている。ジメさんは 以前にも カナダから来た学生の荷物で 関空でもめたことを思い出し こんな時は態度で示すことだと思い" I will pick some goods out."と ええかげんな英語で ヨメさんのスーツケースを引き取り 目の前で バンドを解くふりをした。その時 次のご夫婦の荷物が 各13kgで通過するのを見逃さなかった。ヨハンさんも すぐ"Group total OK?"と 聞いてくれた。担当は 苦笑いしながら その荷物をこちらへ戻せと言った。ヨハンさんと 担当に"サンキュー、グラッチェ、ダンケ、メルシー、ありがとう"と 感謝の言葉を知ってるだけ並べて 無事ゲートを通った。後で 添乗の水谷さんに聞くと「最近は 原油の急騰で 各航空会社とも 採算を維持するため 重量制限がきびしくなっている。特に エールフランスは オーバー分の追加料金はきびしく請求するし そのエールフランスに最近買収された ルフト・ハンザ航空も 同様きびしくなった」と 聞かされた。AZ-865便は 6:00発の予定であるが 乗り込んで窓から見ていると 我々の荷物を二人の係員が 手積みで機内に入れている。ジメさんの重たいケースが見えた。申し訳ない。そのせいでもなかろうが 40分遅れで ミラノ空港に向けて飛び立った。7:10頃に 地中海の上空の雲海の中から 眩しい太陽が顔を出した。イタリヤの上空に来ると 分厚い雲の隙間から見える山々は 雪で真っ白であった。8:30に ミラノ・マルペンサ空港に着陸した。ここで 乗り換えの AZ-794便 15:15発まで 約7時間の 待ち合わせ時間である。38名の内 19名の方は OPツアーで バスでミラノ市内の観光へ、15名の方は 空港内で時間つぶしをされる。離団届けを提出して 高松の若い女性二人と ジメさん夫婦は 電車でミラノ市内へ出かけた。予め インターネットで Malpensa Expressの時刻を調べてあったので まだ 8:53の電車に間に合うと 地下の駅へと走った。チケットは 往復14.5ユーロ。電車は ガラガラで 二階の展望室に座った。空港を出て トンネルから出ると ところどころ畑にに 昨日までの雪が残っていた。電車は 40分で NORD駅に到着した。若い二人は 駅の近くの「サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会」へ 「最後の晩餐」の絵画を見に行くと言う、予約無しでダメなら元々と そう言う気持ちが行動力を生むのだと 幸運を祈って 駅で別れた。ジメさん夫婦は METROの Cadorna駅から 2号線で 三つ目 PT,Genova駅まで行く。乗車券の自動販売機で迷ったが 後ろの娘さんが教えてくれて 1ユーロのチケットを買った。Genova駅に降りると もう中世の生活の臭いが一杯の「ナヴィリオ」の町だ。ガイドブックを見て ぜひ行こうと決めていた町だ。土日は 地元の観光客で賑わうようであるが 今日は早いので 我々二人だけで とても静かであった。運河の両側には 古い住宅が並んでいた。先ず CAFEで コーヒーの飲みながら雰囲気を味わおうと入った。一人で新聞を読んでいた 老人が「日本から来たのか? ミラノに住む友達から 京都は素晴らしい町と聞いていて 死ぬまでには行って見たい」などと 話しかけられた。30分ほど休憩し 運河に沿った道の店を眺め 時折 入り口からパティオに入ると おしゃれな店があった。ダックスフンドが出てきて遊んでいたら かっこいい女性が 店の中へ入れと言う、そこは家具とインテリアの店だった 日本から取り寄せた 湯のみ 茶碗 お箸などをディスプレイしてあったが どうも並べ方が変だ。ジメさんは 了解を得て 少し置き方を変えて上げたら とっても喜んでくれた。さらに運河に沿って進み 右手を見ると 運河の中に 二艘の舟が レストランとして繋がれていたが 営業は12:30からで 残念であった。少し進むとASCANT STREETの凱旋門(ティチネーゼ門)があり 市電が何本も交差していた。この通りも 可愛いお店が もうクリスマスのセールをしていた。ヨメさんは面白い置時計を見つけて買った。小さな市場も見つけたので 場内一周して 今度は 運河の反対側の岸を 地下鉄駅の方へ戻ることにした。途中 古いレンガ造りの教会があった、誰もいなかったが 中に入って ろうそくを上げて 元気で旅に来られたことを感謝した。教会の鐘が正午を告げたが この辺りのレストランは 全部 12:30からの営業でがっかりしていたら 丁度 ピザ屋さんが オープンしていたので そこへ飛び込んだ。お客は誰も居なかった。丸々と肥えた親父が 焼きあがったばかりのピザを指して どれも全部旨いよと言う、マルガリータと トマト・オリーヴ・チーズのミックスを注文したら 物凄い大きなカットで食べきれず 紙につつんでくれた。飲み物と合わせて 7ユーロを払って 釣りはチップだよといったら "アリべ・デルチ"と 表まで出て 手を振ってくれた。地下鉄で CARDONA駅まで戻り 駅前で写真を撮り 12:57発の電車に乗って13:37 空港駅に戻った。帰りの電車で 女性二人組みも一緒になり 彼女達も「最後の晩餐」を 見ることが出来て 大満足だと喜んでいた。すでに バス組も戻っておられ 14:30の集合時間には 全員が揃った。他のイタリヤ観光のグループも 沢山おられたが 聞くと 連日天候が大荒れで ヴェネチアの島にも入れず 散々だったと嘆いてる方が多かった。ミラノ空港から AZ-794便は 定刻の15:15に飛び立った。夕食のサービスが終わって すぐ眠ってしまい 目が覚めたら 北京の上空に来ていた。西からの強い追い風に乗って 予定より 30分早く10:30に 無事 関西空港に到着。かくして 事故や 盗難の被害もなく 無事 チュニジアの旅を終えた。添乗して下さった 阪急トラピックスの水谷さん、現地 ATRANTIS VOYAGEのガイド ヨハンさん、 毎日「はーい はーい」と 元気で楽しく旅を一緒した 38名のツアーメイトの皆さん そして 旅に出られる健康を与えて下さった病院の先生や看護士さん 留守を守ってくれた家族にも 改めて 感謝の意を表して この旅行記は 終わりとします。みんな ありがとう!写真は 「ミラノ市内 ナヴィリオ地区の運河に浮かぶ レストラン」