053831 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【ログイン】

神社・野仏ウォッチングのすすめ-新しい趣味の提唱-

全66件 (66件中 1-10件目)

1 2 3 4 5 6 7 >

全て | カテゴリ未分類 | 彩の国 石仏閑話 | 石仏閑話

彩の国 石仏閑話

2008.02.08
XML
カテゴリ:彩の国 石仏閑話
 写真は、小鹿野町・十輪寺境内にある石碑。迦楼羅(かるら)という伝説上の鳥を浮き彫りにする珍しいものだ。

 ヒンドゥー教の神に、ガルーダと呼ばれる超巨大な怪鳥がいる。このガルーダを音訳したのが迦楼羅で、日本名では金翅鳥(こんじちょう)。ガルーダ・インドネシア航空の名も、この神の名に因む。

 迦楼羅は、鳥頭人身で足は鳥形または人間形という奇怪な姿。翼があり全身金色。口から火焔を吐き、竜や蛇を常食とする。のちに、仏法守護の天竜八部衆の一となる。

 古代インドでは、部族ごとに特定の鳥獣を守護神として崇める習俗があった。迦楼羅が竜や蛇を常食とするのは、迦楼羅信仰族が蛇信仰族と敵対関係にあったことに起因するといわれる。

 竜神や蛇神は一般に祈雨の本尊とされる。これに対して迦楼羅は、これらを食うことから、止雨の本尊とされることが多い。写真の石碑は、長雨の終止や水難防護などを祈ったものだろう。

 迦楼羅は、秋葉権現などの鴉(からす)天狗形の大天狗のモデルとなったという説もある。また不動明王の光背にあしらわれる火焔は、迦楼羅焔と呼ばれる。まれに、迦楼羅の頭部も彫られることがある。

 ただし、他の明王が背負う火焔は、迦楼羅焔とはいわない。倶利迦羅(くりから)竜王の光背が迦楼羅焔ならば呉越同舟だ。 



ぜひお読みください。 → 神社の見方 野仏の見方 神社ウォッチング 神社ふしぎ探検







最終更新日  2008.02.16 12:12:28
2008.02.04
カテゴリ:彩の国 石仏閑話
 写真は秩父四番札所・金昌寺の羅漢像。白い斑模様が目立つ。これは、コケやカビではなく、ウメノキゴケという地衣類の一種だ。

 コケという名がつけられていても、生物学的にはコケ類ではない。菌類と藻類が共存している複合体を地衣類という。ツンドラ地帯では、この一種がトナカイの餌となる。身近な例では、食用のイワタケが地衣類だ。ウメノキゴケには灰白色や薄緑、薄黄色など何種類かある。

 コケに被われた石仏は、ときには風情のある写真になり得る。しかし、ウメノキゴケは写真ばかりか、石像にとっても迷惑なものだ。場合によっては、セメントで補修したように見えることもある。

 拡大して見ると、マッシュルーム形の堅い葉状体の集合で、タワシで洗う程度では落ちない。強くこすれば、石の地肌を削り落とすことにもなりかねない。

 地衣類は、年に3mmぐらいしか成長しないのが通例。このことから、石の表面の年代を測る指標に利用される。また、夜露などで水分補給するため、汚染された大気中では生育しにくい。つまり、環境汚染の指標ともされる。東京都心部の石仏にウメノキゴケが少ないのは、大気汚染がその原因の一つだ。

 石材のphにもよるが、ウメノキゴケに被われるのは、空気が清浄な証拠といえる。


ぜひお読みください。 → 神社の見方 野仏の見方 神社ウォッチング 神社ふしぎ探検







最終更新日  2008.02.16 11:53:09
2008.02.01
カテゴリ:彩の国 石仏閑話
 写真は、ごく一般的な地蔵像。右手に錫杖、左手に宝珠を持つ比丘形の姿は、数ある石仏のなかで最も多く、子どもでも知っている。赤い前垂れや帽子は、近所の婆ちゃんの自主的奉仕が通例だ。

 地蔵菩薩は、釈迦入滅から弥勒仏下生までの間、無仏となる世界での導師とされる。六道輪廻の衆生を救済するだけではなく、衆生の苦を身代わりとなって引き受ける。なかでも、地獄での救済が強調される。この「代受苦」は、他の菩薩には見られない地蔵の特徴だ。

 地蔵信仰は、中国や日本でつくられた各種の偽経または説話、俗信に基づく部分が圧倒的に多い。道教の十王思想と習合して、地蔵と閻魔大王は同一視される。

 民間信仰では、身代わりだけではなく、治病・延命、抜苦与楽、子授け・子育て、招福、疫病除け、火災・水難除けなど、あらゆる効験が語られ、それぞれに愛称や名字がつけられる。さらに、軍神としての勝軍地蔵まである。

 寺や墓地の入口などには、必ず六地蔵が立つ。六道に対応して六体の地蔵を配し、それぞれに名称・担当・持物が異なる。ただし、これらは経典ごとに相違し、少なくとも数種類はある。それでも、錫杖と宝珠を持つ地蔵は、地獄道担当という共通項がある。

 路傍のお地蔵さまも、地獄を見据えているのだろうか。


ぜひお読みください。 → 神社の見方 野仏の見方 神社ウォッチング 神社ふしぎ探検







最終更新日  2008.02.16 11:42:56
2008.01.25
カテゴリ:彩の国 石仏閑話
 御嶽山は全国各地にあり、総称して「国御嶽(くにみたけ)」と呼ばれる。いずれも修験が関与した高く大きな山で、かつては、それぞれに蔵王権現が祀られた。これを御嶽信仰という。

 この御嶽信仰のなかでも、木曽・御岳(おんたけ)信仰は独特の歩みをみせた。江戸中後期に、尾張の覚明(かくめい)行者、次いで秩父の普寛(ふかん)行者が、登拝の旧習を無視して強行登山。以来、急速に普及して、明治時代には教派神道「御岳教」となる。

 写真は、川越市岸町・熊野神社境内の御岳塚頂上にある石碑。八海山と三笠山は、御岳山と峰続きの山で、御前山(おまえやま)ともいわれる。

 江戸時代には、それらの山の祭神または霊を、御嶽山蔵王権現、八海山大頭羅(だいずら)神王、三笠山とう利天(りてん)(「とう」はりっしんべんに刀)と称した。大頭羅神王は、般若経を護持する十六善神という夜叉神の一。 利天は、神々が住む天界の一。これらを御嶽三座神と呼ぶ。いずれも、その権現として天狗が想定された。

 神仏分離によって、御岳信仰は神社として登録される。そこで、これらの仏名を廃して、御嶽山は国常立(くにのとこたち)命、三笠山は豊斟主(とよくむぬ)命、八海山は国狭槌(くにのさづち)命と替えた。前二神は神代七代(かみよななよ)の一、二代。国狭槌命は山の神・大山祇神の子だ。

 他に、各山名に「大神」をつけたり、神社名をつけたりと、御嶽碑はややこしい。日本酒の銘柄が並んでいる、と誤解する呑み助もいる。 御嶽山は全国各地にあり、総称して「国御嶽」と呼ばれる。いずれも修験が関与した高く大きな山で、かつては、それぞれに蔵王権現が祀られた。これを御嶽信仰という。

 この御嶽信仰のなかでも、木曽・御岳信仰は独特の歩みをみせた。江戸中後期に、尾張の覚明行者、次いで秩父の普寛行者が、登拝の旧習を無視して強行登山。以来、急速に普及して、明治時代には教派神道「御岳教」となる。




ぜひお読みください。 → 神社の見方 野仏の見方 
       神社ウォッチング 神社ふしぎ探検
 






最終更新日  2008.02.15 09:17:04
2008.01.07
カテゴリ:彩の国 石仏閑話
 所沢市荒幡に、自然地形を利用してつくられた大きな富士塚がある。その麓に建つのが写真の石碑だ。全体に麗雅な彫りで、建立者名は明瞭に彫られていても、その建立目的や年号などの文字はない。

 像が手に持つのは、輪を載せた蓮華の茎。その輪の中にはカラスが描かれている。これは日本では八咫烏(やたがらす)、中国では金烏(きんう)と呼ばれ、太陽を象徴する三本足のカラスだ。ただし、金烏は赤いカラス。

 このカラスによって、蓮台上の円は宝珠や月輪ではなく日輪を表したものと分かる。つまり、この像は十二天の一尊である日天子、略称・日天だろう。

 日輪は日精摩尼(にっしょうまこ)と呼ばれ、闇を照らし、人々に真理の眼を開かせることの象徴。日天子は、その太陽そのものを神格化した日神だ。数頭立ての馬車に乗るのが通例ながら、馬車を省略した図例もある。

 日光菩薩も日輪を持つ。しかし、常に月光菩薩と対で、薬師如来の脇侍として祀られる。日光菩薩が独尊で信仰される例を聞かない。

 写真の像は、日待ち信仰の主尊としての日天子と考えられる。とはいえ、太陽崇拝の一種である「狭義の日待ち信仰」なのか、月待ち信仰などを含む「広義の日待ち信仰」として祀られた姿なのかは判断できない。月待ち信仰の主尊にも、日天子という例があるからだ。



ぜひお読みください。 → 神社の見方 野仏の見方 
       神社ウォッチング 神社ふしぎ探検
 






最終更新日  2008.01.07 19:04:05
2008.01.04
カテゴリ:彩の国 石仏閑話
 写真は所沢市中富・多聞院境内にあるトラの石像。狛犬のように、左右一対で参道に置かれる。

 これは、俗信的な解釈によって、トラは多聞天(毘沙門天)の使い、または化身とされることに由来する。ほかにも、東京都港区南麻布・天現寺の多聞堂前のトラ像などが知られる。

 なお、毘沙門天は梵語の音訳、多聞天は意訳による命名で、同一の尊格。四天王の一尊の場合は多聞天、単独信仰では毘沙門天と呼ばれるのが一般的な傾向だ。

 上杉謙信が自らを「毘沙門天の化身」と称すほどに信奉したことは、よく知られる。須弥山を都になぞらえて、都の北方守護役を自認した。その主要な軍旗には、毘沙門天の「毘」を大きく標した。

 他方、これに対抗した武田信玄は、宗旨を問わず寺社を広く崇敬・保護した。なかでも、毘沙門天は軍神として武田家代々の守り本尊だった。信玄は、兜の中に小さな純金製の毘沙門天像を収めて、戦陣に赴いたという。

 信玄没後、その純金毘沙門天像が川越藩主で幕府老中格の柳沢吉保の手に渡った。これを本尊として建てたのが、この多聞院と伝えられる。

 このトラの石像は、精悍で野性的な迫力に満ちた逸品といえる。寅年になると、決まってマスコミなどに取り上げられて話題になる。 写真は所沢市中富・多聞院境内にあるトラの石像。狛犬のように、左右一対で参道に置かれる。




ぜひお読みください。 → 神社の見方 野仏の見方 
       神社ウォッチング 神社ふしぎ探検
 






最終更新日  2008.02.15 09:13:28
2007.12.28
カテゴリ:彩の国 石仏閑話
 写真は、志木市柏町二丁目の行屋稲荷境内にある石碑。正徳二年(1712)建立ですっきりと整った彫りだ。肩から脇にかけて、条帛という細長い布をつけ、蓮華座に坐す温顔から、大日如来か菩薩のつもりだろう。だが、臂釧(腕輪)や瓔珞(首飾り)など飾り物がない。

 手先が欠損しているので、智拳印か合掌か、判断もできない。上部に種子のようなものが明瞭に彫られているものの、でたらめの梵字らしい。

 さらに、条帛のつけ方が左右逆だ。仏教の常識では考えられない基本的かつ決定的な誤りだ。仏像や僧侶の着衣は偏袒右肩または通肩といって露出するなら必ず右肩、と決まっている。

 このような非常識な石仏はこれに限らない。大日如来の智拳印が左右逆という例もある。不動明王の弁髪が、お下げ髪のように左右に垂れる像もある。これらを咎めることもなく、境内に安置する住職にも問題があるだろう。

 仏教では、左を不浄と考える。だから左肩を衣で被う。わずかでも左を弁髪の陰になるように垂らす。左指を右手で覆うのが智拳印である。もちろん、別の所説もある。いずれにしても、左を覆い隠すのが、宗派を超えて、仏教の基本だ。

 写真の石碑には行者名がある。その供養塔だろう。本人は苦笑しているに違いない。 



ぜひお読みください。 → 神社の見方 野仏の見方 
       神社ウォッチング 神社ふしぎ探検
 






最終更新日  2008.02.15 09:16:24
2007.12.24
カテゴリ:彩の国 石仏閑話
 写真は、さいたま市中央区赤山通りの霧敷川のほとりに建つ石碑。享保十一年(1726)に建立されたものだ。

 石橋さんが、ここで投身自殺したわけでも、人柱になった供養というわけでもない。石造の橋が完成し、末永く堅牢・安泰であること願い、併せて通行安全などを祈念するものだ。

 橋供養とは、架橋工事が完了して、その橋の上で行う供養の儀式だ。この供養という言葉は、抽象的で幅広い概念の仏教語なので、理解しにくい。仏法僧などに供物を捧げることだけではなく、尊び敬いながら奉仕することや、精神的な崇敬の態度まで供養という。極端にいえば、ただ礼拝するだけでも、その行為は供養ともいえる。

 供養というと、死者の冥福や成仏を願うことと思われやすい。それは追善供養との混同や、追善を省略した語法が多用されるからだ。供養という言葉自体には本来、死者に関わる意味は含まれない。

 庚申供養塔や月待ち供養塔などの石碑や、開眼供養、経供養などは、いうまでもなく死者とは何の関係もない。石橋供養塔も同じことだ。

 供養塔には必ず、願いを託すべき主尊がある。庚申塔の青面金剛や、月待ち塔の如意輪観音などが代表的だ。石橋供養塔には地蔵を彫り込むものがあるので、主尊は大地を司る地蔵なのかも知れない。



ぜひお読みください。 → 神社の見方 野仏の見方 
       神社ウォッチング 神社ふしぎ探検
 






最終更新日  2008.02.15 09:18:09
2007.12.21
カテゴリ:彩の国 石仏閑話
 雷は「神鳴り」の転化だ。雷鳴は「神立(かんだ)ち」といわれ、雷神の咆哮(ほうこう)または来臨と理解された。雷光は「稲光(いなびかり)」であり、「稲妻(いなづま)」とも呼ばれる。雷光は、稲の夫(つま)であり、雷によって稲が受粉されて米が稔る、と考えられてきた。

 科学的には、雷雨をもたらす高温多湿の気候条件は、熱帯作物である稲に最適。稲作農家にとって、雷雨は歓迎すべき気象条件で、雷神は農業神であり、水神でもあった。

 北野天満宮では、雷神は道真の怨念を造形化した災厄神として祀られる。これも雷神の一面で、忌避すべき神でもある。落雷除けの「雷電様」という信仰も北関東などに見られる。しかし、農村地域で祀られる雷神の多くは、その趣旨が異なるといえる。

 写真は、飯能市井上207番地・雷神堂内に御前立(おまえだち)として鎮座する雷神像。天保十四年(1864)につくられたといわれ、高さ25cmほどと小さな石碑だ。

 雷神は、虎皮の褌(ふんどし)姿で、連太鼓を輪形に背負い、桴(ばち)を持つ赤鬼で表される。このスタイルは、鎌倉時代に定型化されたものという。

 「雷様は臍をとる」といわれる。これは雷雨になると気温が急降下するため、腹痛予防に急ぎ衣服を着るように、という戒めの諺だ。

 雷神の石像は、ごく稀にしかない。関東では各県に一基あるかないかくらいだろう。 



ぜひお読みください。 → 神社の見方 野仏の見方 
       神社ウォッチング 神社ふしぎ探検
 






最終更新日  2008.01.04 19:41:55
2007.12.17
カテゴリ:彩の国 石仏閑話
 山の神は、春になると里に降りて田の神となり、秋の収穫が終わると山に帰る、といわれる。だが、これは里の農耕民にとっての山の神。山で仕事をする人々にとっては、春から秋の間、山の神が不在では困るのだ。

 山の神は、猟師や木材・木工関係者、鉱工業関係者、さらに海の漁師まで、それぞれに想定される性格や祀り方が違う。職能だけではなく、地域によってもニュアンスが異なる。いずれも、古来の原始民俗信仰を伝承するものだ。

 その名称も、抽象的に「山の神」と呼ばれ、具体的神名がないのが一般的。神道的には、大山祇神(おおやまつみかみ)や木花咲耶姫(このはなさくやひめ)が山の神とされる。これは後世の付会だろう。北関東では十二神といわれる例が多い。年に十二人の子を産む多産・豊穣の神とイメージされる。

 山の神の姿や形も、山姥(やまんば)形から天狗形、夫婦神形、鬼神形、一脚一眼形、菩薩形などと非常に多彩だ。多くは、近世の仏教などの影響による。

 日本の神は本来、姿のない「幽体(ゆうたい)」に特徴がある。そこで人々は、目に見える山の神の「使い」を考え出す。それが猿であったり、蛇または猪や狼であったりと、地域色・時代色豊かに指定される。

 写真は、ときがわ町・慈光寺境内にある山神の石碑。鍬と収穫した野菜を担ぎ、右手に扇子を持つ軽妙洒脱な神使・猿の姿だ。 



ぜひお読みください。 → 神社の見方 野仏の見方 
       神社ウォッチング 神社ふしぎ探検
 






最終更新日  2007.12.17 20:44:17

全66件 (66件中 1-10件目)

1 2 3 4 5 6 7 >


Copyright (c) 1997-2017 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.