テーマ:好きなクラシック(2327)
カテゴリ:音楽紀行
デュッセルドルフにはホーフガルテンという大きな公園があるが、その中に人知れずひっそりと佇む胸像がある。これがなんと「ロベルト・シューマン」の像なのである。 シューマンがデュッセルドルフに実際住んでいたのは晩年のわずかな期間だが、この地方の名士の一人に数えられている感がある。またデュッセルドルフの音楽大学にはこの「ロベルト・シューマン」の名前が与えられている。 一般にもシューマン=デュッセルドルフのイメージは(ブラームス=ハンブルクに比べると)根強い気がする。それは晩年の不幸な出来事がそのように印象付けているのだろうか。 僕は先週土曜日、デュッセルドルフ旧市街南部にある陶器博物館を訪ねた。それは「日本とユーゲントシュティール」という展覧会を見るためで、それはまた後ほど詳しく書くとして、その近くにロベルト、クララ・シューマン夫妻が住んでいた家が残されていた。 シューマンは1850年から音楽監督としてデュッセルドルフに住むことになる。当初、デュッセルドルフの明るい雰囲気がシューマンの気に入っていたようである。 シューマン夫妻が実際この家に住んでいたのは1852年9月から1854年3月までの2年足らずの期間である。 左はシューマン夫妻横顔のレリーフ。デュッセルドルフの良好な環境はシューマンの創作意欲を掻き立て、交響曲「ライン」やチェロ協奏曲、多数の室内楽曲などが生まれた。 しかし音楽監督の仕事は彼には重荷になっていたようで、くすぶっていた楽員との不仲が徐々に悪化し1853年には辞任に追い込まれる。このことはシューマンの精神に悪影響を及ぼしたようである。 同年、ハンブルクから一人の音楽家が訪ねてきた。シューマンはこの音楽家の才能にたいそう驚き、沈んでいた気持ちがよみがえったという。喜んだシューマンは彼のことを記事にした。この音楽家とは、ヨハネス・ブラームスであった。 話は変わって、この旧市街南部一帯は職人の店が多いようである。アンティーク家具店、ヴァイオリン工房、オリジナルの高級服飾店などが立ち並び、それらを覗いてみるだけでも面白い。 このシューマンの家自身はシューマン関連の展示などは一切なく、陶器の人形を作って売る店となっているようだ。この日は閉まっていたが、窓から中を撮影したのが左の写真である。奥にも何か工房らしきものが見えた。 1854年からシューマンの病状が悪化する。特にひどい幻聴に悩まされていた。絶えず頭の中で音楽や雑音が鳴り響いていたようである。 1854年2月27日、悪天候にもかかわらず市民はカーニバルに浮かれていた。仮面をつけ変装し、酒に酔った人ごみの間をひとりの苦悩にみちた男が通り抜けるのにだれひとり気がつかなかった。そしてこのような喧騒の中、シューマンはライン川の橋の欄干に足をかけ、川へ飛び込んだ・・・ 今現在僕はこの橋がどの橋なのか分からないが、「オーバーカッスラー橋(写真上)」か「ライン・クニー橋(写真下)」のいずれか、またはこの近辺にあった古い橋なのかもしれない。このあたりの河川敷ではよくお祭りが行われる。 シューマンはその後救助され、ボンのサナトリウムに入院する。また近いうちにそこも訪ねてみるつもりである。 経過時間 1月 20時間 45分経過 吸った煙草 0本 吸わなかった煙草 318本 浮いた煙草代 63ユーロ 延びた寿命 1日 2時間 30分 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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