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『私のこと、抱いて』突然の私の無理な要求に、謙吾が、ため息をつき、車を出したあの日。謙吾は、黙って車を走らせ街に出て、一番大きなホテルの地下駐車場に停めました。停めてから、こちらを見つめ、何か言おうとする謙吾を残し、私は先に車を降りました。謙吾は首を振りながら、人目を避けるための眼鏡をかけ、車から降りました。エレベーターでロビーにあがり、私にソファで待っているようにいうと、フロントに行き、キーを持って戻ってきました。その部屋は、とても広いスイートルームで、窓からきれいな夜景が見えました。謙吾は、部屋に入ってしまうと、少し落ち着いた様子で、ソファに座り、「俺、腹減っっちゃった。なんか食べていい?楓も食べるだろ?」と訊き、ルームサービスのメニューを広げました。「何か適当に頼むよ?あんまり腹ペコじゃ、なあ?」と魅力的な笑顔で笑いました。私も肩の力を抜いて、微笑みました。食事の間、私たちは、その後のことは忘れたふりをして、まるでレストランで食べているかのように、ゆったりと楽しみました。謙吾の話はとても面白く、私は、まるで健全なデートをしているかのような錯覚に陥りました。食事のワゴンを廊下に出してしまうと、2人でさらにワインを飲みました。しばらくして、私は、立って行き、部屋の照明を落としました。謙吾が少し緊張したように見えました。私はソファに戻らず、窓際に立って、また夜景を眺めました。謙吾が近づいてくる影が、窓ガラスに映りました。謙吾は私の隣に、窓に背を向けて立ち、私の方を見ないまま、小さな声で、「思い直してくれないか?」と言いました。返事をしない私を、覗き込むようにして、謙吾は続けました。「俺、やっぱりこんなの間違ってると思う。楓だって分かってるんだろう?きっと後悔するよ。それに、、、楓、俺の気持ち知ってるだろう?だから、こんな形で、、は、、嫌なんだよ。いつか、俺の気持ちを受け入れてくれて、ちゃんとステップを踏んで、なら、もちろん嬉しいけど。だって、俺は、ずっと楓のこと、、ん。。」私は、謙吾の首に手をかけて引き寄せ、キスをして唇をふさぎました。それ以上、聞きたくなかったから。そんなこと考えたくもなかったから。私は、誰とも寝たことはなかったけれど、自分でも驚くくらい、落ち着いていました。確かに、悟を失くし、自分を失ってはいたけれど、それでも、その時私は、自分をさらに失おうという目的に向けて恐ろしいほど冷静でした。決して酔っていたからではなく、自失の中にありながら、しっかりと自分の意志で、自分をさらに傷つけるためだけに、謙吾に抱かれることを選んだのです。そう、謙吾は悟の代わりに抱かれるには格好の相手でした。私のことを知っていて、私と悟のことを知っていて、そして何より私を愛していました。そんな謙吾に対して、あのときの私はとても冷酷でした。一時弄んで捨てるためだけに、たまたまそばにいた安全な相手というだけで、彼を選んだのです。謙吾が、純粋な気持ちで私を愛してくれていることを知りながら。自分自身を傷つけられたら、それでよかった。それと同時に、謙吾を傷つけてしまったとしても。選択の余地すらなく、道連れにされた、かわいそうな謙吾。謙吾は、私のキスに驚いたように、一瞬離れようとし、でも、すぐあきらめたように、力を抜きました。そして、私をそっと抱きしめてくれましたが、その手は震えているようでした。私は、静かに体を離し、浴室に向かいました。私は丁寧に髪と体を洗いました。後悔なんてしたってかまわない。今、この瞬間だけでも、この現実から遠くはなれた場所に行けたら。悟の気配が私を包んでいる間に、悟の感触を覚えている今の間に、誰かに抱かれて、悟をカンジたいと思いました。1度も抱いてくれなかった悟。大好きだった悟。でも、死んでしまった悟。悟と寝れないのなら、誰と寝ても。。。熱いシャワーを全身に浴び、流れる涙をシャワーのお湯に紛らせながら、私はもう何も考えたくないと思いました。 ← 1日1クリックいただけると嬉しいです。