東海道てくてくトボトボ歩き旅:2019年11月15日(金)・三条大橋~山科
2019年11月15日・金曜日 イベントの仕事で,朝4時55分に夜行バスで,京都駅八条口に着く予定だったが,夜間工事や事故など,かなりな渋滞に巻き込まれて,約2時間半後の7時25分にようやく到着した。 シャキーン!と澄んだ青空に映える京都タワー! 京都駅はもう観光客や通勤通学の人であふれていた。 そんな中,東本願寺の前を通って,烏丸に抜け,四条通りを新京極に折れ,ヨタヨタと久しぶりに京都の街を散歩しながら,三条に向かったのだった。 途中,鴨川を渡る。 この傷は池田屋を襲った新選組の者が興奮して付けた刀傷だと云われているが…。 京都の町を歩き,歴史的なことを解説し始めると,ほとんど一歩も進めないのではないかと思うくらい,いろんな謂れを知らせてくれる看板や案内板が建てられている。加えて寺社が軒を連ね,祠や社が道道にある。 1980年4月から約2年間この街で過ごしたのだ。二条城が目の前にある油小路の途中にある学生マンションに住んでいた。この先,何をどうやって人生を進めて行ったらいいのかよくわからない時間の中で,一人のた打ち回りながら,何かを求めて駿台に通っていた。ようはただの浪人生だったわけだ。「フフフ・・・」 司馬遼太郎の『竜馬がゆく』などを読み,もしオレが幕末の京都に居たら・・・,なんて言う仮説に心躍らせながら,英文700選や出る単なんかのページを捲っていたのである。表三郎や平野眞理や田中重太郎各先生の講座を取って,出ているだけで来年はとんでもないレベルの大学に合格してしまいそうな気になっていたのである。 おめでたい時代であった。18歳だった。青春だった。1980年(昭和55)だった。 〝京都よ、わが情念のはるかな飛翔を支えよ〟 そんな世界だった。 同じ下宿の浪人生全員で撮った記念写真!(駿台予備学校京都校と近畿予備校に通っていた) 前列右が私。タワシ棒を持っているKY君は徳島大学医学部に進んだ。後方真ん中の二人も奈良県立医科大医学部(左)・大阪医科大学医学部(右)へと進んだ。優秀なのである。個人的にわからないところがあると,私はたいていこの3人に訊ねていた。どんな問題でも解いてくれ,きちんと説明してくれた。立派な医者になって,地域医療に貢献してくれていることだろう。 後方右の歯磨き中のKM君、彼は上智大学文学部哲学科に進学した。12月8日にジョン・レノンが暗殺されてしまうという出来事があった日,もうずっと,ビートルズの曲を部屋で流し続けていた・・・,ことを思い出す。特に切なく「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」が鋭く心に痛く響いた。 その後,私が芝居を始めてからもよく連絡を取って,舞台にも足を運んでくれた。大手企業から内定をもらったが,さらに勉学をしたいということで,東京大学法学部に学士入学をして,法律関係の仕事に従事したようだ。けどそのくらいから,私が演劇の袋小路を彷徨った関係で,ちょっと遠くなってしまった。 後方左のYY君は掛川出身で,同志社大学商学部に進んだ。一度自宅まで遊びに行ったことがある。どでかい家で,お客さん用の,正真正銘の〝檜風呂〟に入らせてもらった記憶がある。確か「平楽」というパチンコ屋を経営しているというようなことを話していた。レジャー産業を手広く手掛けているかもしれない。 ・・・・・・哀しいかな,トホホホホ・・・私一人がもう一年駿台に通うことになってしまったのだ。 この時期,テレビで『すばらしき仲間』という番組があった。なんとなく友人知人同士が屈託なくしゃべり合うのを長回しで撮影しているだけなのが新鮮で,よく見ていた。ある回に文学者の里見弴氏と詩人の堀口大学氏ともう一人大家の方が出演されていて,闊達に話をされていた。私は3人とももうこの世の人ではないと勝手に思い込んでいたので,なにやら生きて〝今〟という時間の中で話をされていることが不思議で,とても興味深く画面に見入ってしまった。90を越えられている里見氏や確か88歳だった堀口氏が特に印象深かった。その後何かの雑誌で堀口氏の住所を知り,18歳で行き場が決まらず,未来に不安がいっぱいだというようなことを手紙にしたため,無謀にも郵送した。 忘れかけていた頃,ポストに1通のはがきが入っていて,そこには〝○○○○君へ〟と私の名前が達筆な字で記され, 〝富士山高くつつましく〟 という句が流れるように書かれてあった。何度も何度も読み,イメージし,心に刻み,大家のご親切に感謝した。 もし大学に合格してかなうならばお会いしたい,などと不遜にも思っていたが,かなうことなく大家はそれからしばらくして天寿を全うされた。 ・・・今も時々図書館で氏の全集の前に立ったりするとそのことを思い出したりしている。詩集の中にその一節があることも確かめている。 そのハガキ,あろうことか何回かの引っ越しの果てに,あるべきところから消え去ってしまっていて,手元に現存しないことが残念だけど,心の中には深く,当時の思いと共に刻まれているから何ほどでもない。なまじ持っていると,しなくてもいいのに幾らになるのかと,鑑定してもらったりしかねない。 値段など付けられないのだ。 あれから40年・・・18歳だった浪人生は今年58歳になった。これまさしく〝シェーッ!〟なのだ。 大家の年齢までまだ30年ある。 でもあれからの時間より,10年ももう短いのだ。何ができる!?何がしたい!?夢は!?・・・と呟いてみるが,「・・・う~ん・・・」てなとこである。まぁなんとかかんとかやって行くしかないのだろうよ。 あの時,たった一人取り残された思いに歯噛みした夜もあったけど,またおもろい連中と出会って,ヒリヒリする時間を打っ棄って行くことにしたのである。 新たな下宿仲間と気取ってロックグループのジャケット撮影みたいなことをして,遊んだりし,ともすれば底なしの不安な思いに苛まれてしまいかねない日々を楽しんでいた。 下宿も4畳半の倉庫のようなところに移った。そこには浪人生&大学生が共生し,ワイワイガヤガヤと暮らしていた。餃子の王将パーティーやら大カレー大会やらと称して,息抜きのイベントをみんなでやって励まし合った。これも仮装大会の一つなのだ。ちょっとそんなイベントが多すぎるきらいはあった。 左端で私のジャンパーを着ているのが,同志社大学法学部4年のOさん。Oさんが受け持っていた小学校6年生の女の子の家庭教師のアルバイトを数か月に亘って代行したことがあった。なかなか楽しいひと時だった・・・。グラサンの人は鳥取大学医学部を目指していた3浪生。前に座っている人も筑波の医学を目指していた3浪生だった。 私は12月にここを引き払い,姫路の祖父母宅の2階で最後の追い込みをやって,4月,北浦和駅から歩いて50分くらいかかる大学のキャンパスに紛れ込んだのだった。 準硬式野球部に入って久々に野球三昧をして過ごし,授業になどまったく見向きもせず,西国分寺にアパートを借りて,武蔵野線と京浜東北線を乗り継いで,大いなる20代をスタートさせたのだった。 ・・・・・・ 1年2年はこの京都時代のみんなと連絡を取り合っていたが,いつしかやっぱり間遠くなってしまった。 不安と焦燥に苛まれながらも,1年目2年目の連中たちとの交流があったから,何とか遣り過ごすことができ,大人への階段を上って行けたのだと思う。 思い出すとセンチメンタルになってしまう。 ・・・・・・ そういう時代を遠くに感じながら,京都を離れ,社会の波に飲み込まれながらも何とか生き延び,こうして仕事を兼ねて,時々やってきたり,東海道てくてくトボトボ歩き旅,と称して旧道を探して歩いて,行ったことのない街に,辿り着いたりしていたのである。記憶の糸を紡いで行くと,どんどん深みに嵌ってしまいそうになるのをグッと堪えて・・・・・・ 三条大橋の袂で〝シェーッ!〟 どうしてこんなところで〝シェーッ!〟なんてしているのか!? 三条大橋といえば京都でも有名なくらい人出の多いところである。朝,9時半を過ぎたところではあるが,修学旅行客や通勤通学に向かう社会人やら学生やらで,なかなかなもんですよ。 欄干の反対側ではエホバの証人の方が布教してらっしゃる。こっちを見てこの後ニヤッとしてくれたのだ。 今から7年前,2012年3月8日に旧東海道を完歩した。 完全無欠の〝シェーッ!〟である! と,まぁ,東海道をなんやかんや言って17日から18日かけて踏破した時の表情は,まぁまぁやねぇ。 そもそも,2009年に当時住んでいた新百合丘のマンションから,まだ5歳で幼稚園の年長さんだった息子を連れて,家族3人で柿生川の畔をぶらぶら散歩しているうちに,一駅歩いてしまっているのに気づき,もうちょっと行ってみよう,と足を延ばし,和光大学あたりで道に迷ったものの,トロトロてぼてぼ歩いて行き,モスバーガーで昼食を食べ,一息ついてまた歩いていると,町田の駅に到着したのだった。 途中からは〝目指せ町田!〟2009年7月1日の事というような感じになって,女房はしんどがっていたけれど,5歳の少年は元気にしっかり歩いてくれた。「でももうこんなこといいからね」と町田の駅の中のイタリアンで釘を刺されてしまった。 てくてくトボトボこういう歩き散歩で急行一駅分ずつ歩いて行くというのを遊びにしたら面白いだろうなぁ,と思って話そうとした瞬間,間髪をいれずにシャッターを降ろされたのだった。「・・・まぁええわ・・・」 7月に入ってそれがすぐの日曜日のこと。前々から歩いて田舎に帰ったら・・・なんてことを空想していたことが,俄然リアルに私の中でムクムクと煮え立って来たのだった。 翌週ひとりで小田急線沿いを1日歩いてみた。2日歩いてみた。3日歩いてみた。いつの間にか小田原についていた。ここは東海道の宿場町やんけ・・・。そうか,この先は東海道を歩いて行ったら京都に着くわけや・・・。「行ったろ!」こんな感じで箱根峠を越えたのだというようなことになったのである。峠は霧! だから最初は日本橋からなんて歩いていないのである。 <箱根でのエピソードをひとつ・・・ふたつ・・・> ・・・・・・ 畑宿に入って,一里塚を見て,さてと・・・という感じで街道に戻ったつもりが,なんだかさっきまでの道とは様相が違う。ちょっと下っているのである。 「??」 それに車のスピードがちょっと速い。宅配と郵便配達のバイクぐらいしか行き交っていなかったのに,突然大型トラックやボックスカーなんかがビュンビュン走って来るではないか! 「!?」 おかしいな・・・??と思いながら,、歩いていると工事人のような人がこっちを睨んでいる。なんとなく右手を挙げると,納得したように頷き,階段を下りて行った。 「?!」 車列が途切れたところで横断してみた。登りもかなりなスピードで車がやって来る。やっぱりここまで来て下るのはおかしいなぁ,とそのまま戻って行った。パトカーが反対車線を徐行してやって来て,私をこれまた睨んでいる。 右手を挙げて頭を下げると,運転席のポリスも頭を下げ,スピードを上げ走り去った。 「・・・もしかしたらここは・・・」 工事現場に人が立っていて,強烈な目力で私を睨みつけてくる。 ニコッと笑って, 「あのぉ,この道は芦ノ湖にはいかないんですかぁ??」と訊ねてみた。 「fj4%)$”}*GB0jsghk」という怒声が響いた。 「さっきから&%(YJDXJBJHFLOP>PP8(T%」 「芦ノ湖へは・・・」 「芦ノ湖だぁ!!!!!!!!」 もの凄い形相で怒っている。 「&*どっから#+>どうやって‘~?+この道に=&*入ったんだ!?」 「どっからって・・・そこの一里塚の裏から」 「一里塚だぁ~ッ!?」 そう私は道を間違えて,高速道路である箱根新道を歩いていたのである。 スマヌスマヌ・・・。 まぁとにかく状況を話しした。そしてここから出たいのだがどうすればいいのかを訊ねた。 「・・・先にある階段を降りたら%’*玉川学園の#(?・・・あるから,そこを&)$?横切らせてもらって!+‘&・・・わかたね・・・??」 「はぁ,どうもありがとう」 「芦ノ湖#&+*?*‘@!!!!」 何かまた吠えだしたのだけど,その階段を下り,玉川学園の研修所か保養所のような建物がある庭先を横切って,畑宿の一里塚のところに戻ったのだった。 旧道に戻る前にどこで間違えたのか確かめてみようと思ったが,箱根新道に出てしまうような道はどこにもなかったのだった。 で・・・。 芦ノ湖に着いたのだけど,もう霧の中だった。峠に出たが,旧道に向かう手前がバイパスへの道に繋がっていて,霧の中から猛スピードで車が走り出してくるのである。今日はこの辺で・・・,と思って引き返しにかかった時,山歩きのようなスタイルで,一人の若者がやって来てすれ違った。咄嗟にこの人について行けば・・・,と思い,また引き返して後を付けた。 案の定旧道の方へ入って行く。 霧で姿が見えにくいのだけど,何とか悪い足場の中,必死にその姿を見失わないように,私はてくてくトボトボついて行った。 どういう人なんだろうな・・・と思いながら,霧の中で見え隠れする彼の姿を追いかけた。だんだん下りになって行き,霧も晴れてきたとき,頭は見えているのにその人の体は霧に包まれたままで, 「・・・??・・・」と思って姿を凝視していたら,スーッと足元の霧が晴れ,頭が逆に霧に包まれた瞬間・・・。 「!!!!」 私は絶叫しそうになった。その人には足がないのである。 「????」 うっそやろ! また霧に包まれ,えぇ~・・・と思って,ちょっと足取りも冴えなくなって・・・また引き返したくなったりしているうちに,いつしかその姿を見失ってしまったのだった。 いやそれは私のタダノ見間違い・・・そうに決まっている。 「う~ん・・・」 やがて,集落に辿り着き,いくつ目かの一里塚を過ぎると,三島の街が見えてきた。 まさか幽霊・・・まさかまさかまさかまさか・・・。 ・・・・・・ 二つのエピソードでした。。 またまたまたまた…記憶の細部に入り込んであいまったぁ~ッ・・・ まぁまぁ・・・そんなことは別にどうでもよく,ただただひたすら西に向かって,京都に向かって,2009年7月22日,仕事の合間を上手く使って,とうとう山科に到着したのだった。街道焼けで真っ黒になった。もうヘロヘロ……歩いても歩いても静岡県だった…… 足パンパン・・・何かに憑かれたような旅だった。 8月に旅を再開したのだけれど,三条大橋には寄らず,そのまま山科から伏見に出て,淀川沿いを南下し,十三から西へと進路を取り,ほぼほぼこの辺りは旧山陽道を通って,三宮・神戸・須磨・垂水・明石・加古川・・・と歩き,8月の終わりに,ようやく実家に到着したのだった。「こりゃぁ,面ろいわぁ・・・」息子の出迎え!ということになり,目くら滅法に歩くんじゃなくて,ちゃんと旧道を調べて歩いてみよう!・・・と思うようになって,日本橋からまた歩きだし,コツコツと道を繋いで,3年後に完結させたのだった。 そのシェーッ!だったのである。 その間,女房の実家の高崎までも歩き,これもまた新百合からだったので,ちゃんと中山道として,日本橋から歩き始めたり,日光街道や奥州街道への旅も始めて行ったのである。こんな落書きさえ気持ちにに響いたりした… もう今歩かなければ道が逃げてしまうんじゃないかというような勢いで,あちこち歩き,写真を撮り,その日の思いを日記に記し,なんだか一端の〝旅人〟になったような気になり,〝歩き旅冒険家〟気取りのようなことをやって,遊んでいたのである。 そうして10年余りが経ち,仕事でまた京都に行くことになった日,ついつい三条大橋に向かい,欄干をなんとなく撫ぜていたら,ここからまた何かを始められたら・・・なんて思って,歩き旅の終点に来たらシェーッ!して締めくくりをするポーズを,あえてとって,〝シェーッ!〟から始めよう!・・・というような気分で,エホバのおじさんに見つめられながら,演ってしまったのである。 修学旅行客の人らは皆見て見ぬふりをしていた・・・。 7年前に比べたら,ちょっと立ち姿が歪んでいるし,顔はデブったし・・・月日は百代の過客,なのである。 高山彦九郎氏 いわゆる,待ち合わせは三条の〝土下座〟の前で,という土下座の人は,実は京都御所に向かって遥拝しているのである。 あちこち歩いていると,この人もいろんなところを跋扈していたらしく,よく出会う,のである。 冷たい京の朝,なんとなくそのまま道を進んでいく。 「!」 坂本竜馬についての謂れも,あっちこっちで出会う。 お竜さんとここで結婚式を挙げたそうな・・・。そして日本最初の新婚旅行へ鹿児島まで出かけるのである。西郷さんが寺田屋事件で深い傷を負った竜馬に静養を兼ねて招待したのだ。 私は京都に暮らしていた頃から4年後に,北浦和の大学を放ったらかして,劇団青年座研究所の10期生となり,舞台演劇の道に入って行くのだけれど・・・その時,『坂本竜馬についての一夜』という舞台に〝勝海舟役〟で出演することになった。23歳・・・役作りもままならなかった。右が私。 でも2年ばかし過ごした京都の暮らしが,幕末の京都のイメージを様々に作り変えてくれ,浪人生だったあの頃の,あのヒリヒリするような時間の中にいた京都を思い出すことによって,かなり縦横無尽に役作りへ反映させていったことを思い出す。八木柊一郎という人の作品で,本番前,けいこ場に足を運んでくれ,ひと言ふた言アドバイスをもらった記憶がある。 1年間に5本の舞台に立った。濃密な時間だった。34年前の話である。ついこの間のように蘇って来るけれど,ずいぶんと時が流れてしまった。あの頃の連中・・・ ♪・・・みんな何処へ行った・・・♪と中島みゆきの『地上の星』のメロディーが脳裏で奏でられて来そうだ・・・。 歩いていると,ホントこうして今と関係ないことを,次から次へと思い浮かべ,過去に遊んだり,未来にさ迷ったり,今を生きながら,いっぱいこの今さえ打っ棄ったりして,トボてくトボてく・・・なのである。 てなわけで・・・。 さらに道を進む。 昔から,変な地名だけど,この坂道にはぴったりやなぁ,と思っていた。 関原與一の従者が馬を蹴り上げた時,水飛沫が義経にかかり,「何すんねんなぁ!」と怒った牛若丸君が9人も切り殺してしまったことが地名の謂れだということだ。 なんちゅう奴や!ボンボンはやっぱりけった糞の悪い行動をとってしまうものなのか。 蹴上を上がると,粟田口刑場跡の案内板。なんとなくそういう雰囲気が,今なお漂っている気がする。 道の反対側はインクラインといって・・・などと説明したくなるがやめておこう。観光案内ブログ・名所旧跡羅列ブログと化してしまうことは避けたい。 ゆっくりと坂が下りに差しかかると,大八車が・・・。ここを京阪が走っていたとはなぁ~・・・。乗ってみたかったなぁ~・・・。 三条通りを右へ,日ノ岡の集落へと入って行く。亀の子不動尊があって,お賽銭を入れる。定番やな。 トロトロと歩いていると,昭和の時間が蘇って来たような・・・。たばこの自販を家の壁に埋め込むデザインのなんと斬新なことか! また三条通りに出て,東海道線の下をくぐり,ちょっと行った先を左折すると,薬科大の学生が湧いて出てきた。 五条の別れを見ながら進むと,山科駅前に出る交差点に到着。東海道はまだまだ進んで行くが,この後イベントの仕事のため宇治へ行かなければならないので,ここまでとする。 ・・・東海道へ立ち寄ったら,またその時いろいろと,これまで2回の旅の思い出などともに,今,タイムリーに歩いているときめきやしんどさなんかをリアルに描いていきたいと思う。 ・・・順々に書いていくには10年という歳月,東海道や中山道などの旅を放ったらかしにしてしまっていたので,思い出せないことが多すぎるし,その時の心の動きや感情が,微妙に今とは違ってきてしまっているので,貯め込んだ旅日記を再生することはどうも違和感バリバリなので,止め,こうして今尚,書きたい喋りたい・・・という思いが湧き上がってくるものだけを捉えて,今の旅とうまくリンクさせていければなぁ,と思っているのだ。 ・・・それにしても過去がなんだか縦横無尽に往来して行き,近い過去と遠くなってしまった過去が入り乱れた感じで,なんだかなぁ~・・・と思うのだけれど,そういう混沌さもまた日々の中には確実に存在しているので,思うままに書いてみた。 まったく人生なんて・・・,と感じ入る次第である。 ・・・また次の旅歩きが楽しみである・・・ 宇治平等院門前の紅葉・・・見事であるなぁ~! <2019年12月20日・記>