山陽道てくてくトボトボ歩き旅:2011年2月22日(火)・西宮戎~三宮・生田神社
どこまでも行こう・・・ 西宮戎から生田神社への道が,下関まで続いて行くのだ・・・ メリケン波止場や弁天浜,風見鶏の館などがある北野あたりも歩きたい,と思ったけど,そんなことをしているとちっとも前に進めなくなる。 生田神社に西へ西への旅の無事を祈って・・・ 2020年1月5日・日曜日 2010年7月2日・金曜日に,姫路城の前から下関目指してスタート! そもそもこの山陽道は西宮戎が基点であるようだ。だから,故郷姫路からこうして出発したものの,西宮戎から姫路までの道を調べなおして,歩いて行った。もっと言えば,京都・東寺から西宮戎までの道を西国街道と云うらしく,この道と繋げば一本になるという思いが湧いた。 東海道の三条大橋からどういう経路を取って東寺まで行こうかと思案したが,「えぇいっ!ままよ」ととりあえずしんどかったので四条烏丸に出て,東本願寺の前を通って京都駅に向かい,今度西国街道を歩くときは,四条烏丸からでも京都駅からでも行けるように頭に刻んで,京都駅のうどん屋に入った。 道がどうにか繋がってさえいればえぇわ,という発想である。 実際その頃は,まだ旧道を歩くことなどに,拘ってなどいなかったため,2010年8月10日(火),JR山科駅から大阪目指して歩いたものの,五条の別れからきちんと旧街道を歩いているわけではなく,かなり歩き易い現代道を近道に近道を重ねて・・・という経路を辿って,京都大阪をてくてくトボトボ・・・8月13日(金)に枚方~西宮,8月14日(土)西宮~神戸,8月15日(日)神戸~明石,8月17日(火)明石~実家という具合に・・・辿り着いたのだった。 不思議なことに西国街道や京街道をワッシワッシ歩きなのに宿場を通過していたりしたのだ 目冥滅法でも知識がなくても,地図を見入りこの道が行き易いかなぁ,と思う道の周辺に旧道が伸びているということが間々あった そうなるとまた〝歩き直す〟というのが何なのかよくわからなくなる・・・ 旧道と思い込んでいる道が違っていたということも間々ある。歩き直しを繰り返すことにどれほどの意味があるというのだろう・・・という気になってしまう。東海道でも中山道でも日光例弊使街道でも奥州街道でもそんなことを思ったのである。「・・・もうちゃんとこの足で歩いたやん・・・」 道を歩いてしんどかったぁ,よう行ったなぁ,やっとこさ着いたなぁ~・・・という感慨でその道の行程は完結しているんじゃないか,と思うのだ・・・ 道があっていようが間違っていようが近道しようが庭を横切ろうが境内を突っ切ろうが・・・えぇやんけ,ということなのである。実際そういうことを,歩きの中では何度もしているのだ。どっちの横断歩道を渡ったかでも,きちんと行程を考えると違ってきたりするのである。間違いながら歩くのも〝歩き旅〟である,という判断と解釈でザックバランに進めて行こうと思うのだ・・・(現内閣のように思いつきと思い込みだけで,法解釈も憲法解釈も簡単に変えてシレッとしているような態度だけは避けたいと考えている・・・ダハハハハ!!) 機会を作っていわゆる旧街道と言われている道(たとえ側溝の蓋の上であっても)を,歩いてみようと思ったのだ。だけど・・・まぁまぁボチボチでんなぁ・・・。(街道歩き直し,なんて神経質に思えて仕方ないのだよ・・・ほんの30Mくらいでも路地を間違えて,またそこへ行き直す,という行為がもうそもそも旅をつまらないものにしてしまっている気がするのだよ・・・) とはいえ,追分から高麗橋に向かういわゆる東海道57次・京街道も東寺から今回の起点・西宮戎までの西国街道をきちんと歩いてみた。 やはり実際に足を踏み入れて歩き出すと,街道筋独特の醍醐味がいっぱい待ってくれていて,実に歩き甲斐のある道だった。 旅の機会もまた一期一会である。 無理してでもその機会を作っていかないと,日々は過ぎ去るのみなのだ。 こうして過去の旅をまとめてみようと思ったのも,実際に行けない分,思い返して旅の旅情に浸ろうという魂胆なのかもしれない。 それもまた旅だ・・・・・・・・・ ただこの山陽道というのは,踏破しても私の生まれた場所,育った地区,学校に通った道々・・・そのすべてがこの旧道と深くかかわっているので,実家に戻ってくるとどこかしら歩いているのである。そうしてその界隈での様々なことと繋がって行き,日々の営みの中に旧道の存在が当たり前のように息づいているのである。・・・・・・ そもそも山陽道とは・・・ ・・・なぁ~んて,実は私は,歴史や謂れや名所旧跡・神社仏閣などの薀蓄がかなりカルト的に好きなのである。 まぁでもそんなことは別にして・・・長すぎる枕はいかがなものか・・・ってこともあるし・・・街道に入って,てくてくトボトボ歩いて行きましょう・・・ 2010年7月2日・金曜日 姫路城の前に立つ! ニッポン大街道紀行〝西へ篇〟スタート!・・・そうして去年の秋,下関まで行ったのだけど,起点から終点までを順々に書き繋いで行こうと思う。だから,時間軸ではなく街道軸で描いて行こうと考えた・・・ 旧道に関係なく,淀川を渡り,神崎川を越え,だいたい似たような道を歩いて姫路城の前にたどり着いたことは事実として,やはり山陽道を歩いた記録としては,基点の西宮戎を出発するところから書いていくのが分かりやすいんじゃないかという気がしてたのである。少々時間が前後してしまうけど,そんな風な時間差街道旅として話を進めて行きたいと思う。 踏破していないのであれば,その場その時・・・ドキュメント的行き当たりバッタリでもかまわないと思うけど,すでに10年の歳月が経つ中で完結している旅であるから,日付をきちんと記しながら,その時々の旅の中で感じた思いを,私の感覚で,今と過去が行ったり来たりすることなども面白がって,パチパチやっていこうと思う・・・。 だから,私は西宮戎の境内に,今,立っているのである! 「!!」・・・ということは・・・ 2011年2月22日・火曜日 姫路城の前から広島原爆ドームまでと,そこから下関・永福寺門前まで,それに西宮戎から三宮・生田神社まで,生田神社から姫路城まで・・・という区分を作って紀行をまとめようかなぁ~・・・と当初考えていたのだけど,山陽道という道の醍醐味を分断するいう名書き方をしてしまってはその魅力が伝わらないんじゃないか,と考えるようになった。順々にその道行きを,てくてくトボトボ歩いて行く姿をきちんと描くことで,この長い約500キロに及ぶ道中のあれこれを描出していけるんじゃないか,と思うに至って,私は西宮戎の境内に向かおうとしているのである。 阪神西宮駅を降りて,改札を出ると左折してそのまま南に歩いて行けば,“えべっさん”が見えてくる。 なのに三宮で阪急電車に乗ってしまい,夙川で降り,そこからてくてくトボトボ歩いて“えべっさん”にやって来た。 ボケボケである・・・ 10時15分,“えべっさん”にやって来る 本殿は改修工事中で,実にくねくねした通路を通って神殿に向かった。 天保・寛政・嘉永などの常夜灯がズラリズラリと並んでいる。 お姉さんの次に・・・旅の無事を祈って・・・「二礼二拍一礼」 傀儡師が大勢住んでいた古跡を見る・・・ 「ちょっと初めから寄り道でんねんけど・・・」 さてさてグズグズせんと行きまっか・・・ 旅打ち24日間の山陽道・・・“えべっさん”の前からスタート! 国道43号線に面したところに寛政11年(1799)に建立された道標がある。 「左京都大坂道 右兵庫はり満道」と刻まれている。 まさしく起点の証である 圓満寺の前を通り,阪神香櫨園駅前の夙川橋を渡って行く・・・ 「なぜ香櫨園というのでしょうか⁉」 「明治40年(1907)に,香野蔵治と櫨山慶次郎が遊園地をここに造ったからでんねや・・・」 白バイに注意 春日町に入ったところのお地蔵さん 道標もこじんまりと建っている。 「右 西宮道 左 中山道」・・・左 なかやまみち,と読みます。 「こんなところに木曽路を貫く中山道(なかせんどう)には通じておりまへん・・・」 この南で,本街道と浜街道に分かれる 本街道は参勤交代が通った道,浜街道は庶民が頻繁に使った道,というような捉え方だ。 大阪城築城の時,芦屋や西宮の表六甲から大量の花崗岩が数多く運び出された。各大名は石に刻印を打ちそれが今も残っていて,民家の石垣に流用されているという。 阿保親王廟碑がある。 在原行平・業平兄弟のオヤジさんである。第51代平城天皇の第一皇子だから,何事もなく事が運んでいけば天皇になれたかもしれないが,この時代は否が応でも政争に巻き込まれざるを得ないのだろう。 薬子の変に連座して左遷され,叔父の嵯峨天皇に許され京に戻ったものの,承和の変では密告者となり・・・ 「まぁ歴史やから・・・いろいろありまんねん・・・事実も真実も虚構も捏造も・・・」 「芦屋打出小槌郵便局っていうなまえがえぇねぇ~・・・」 「金貯まりそうでんなぁ~・・・⁉」 「オッチャン,貯まらへんておかあちゃん言うてるわぁ」 「さよか」 「くぎ煮親せきに送りに来ただけやねん」 「喜んでもらえるでぇ~・・・」 「それやったらウチうれしいわぁ」 西國橋手前の白露地蔵さん。 芦屋市茶屋之町4の分かれ道を 業平橋の手前で国道2号線に合流すると,紀元二千六百年の石柱が建っていた。芦屋川を渡って,その先を進んで行くと稲荷神社の大きな鳥居が見えてくる・・・ 「稲荷の杜 従是三町」と刻まれた石柱が,鳥居の脇に建っていた。 さらに進んで行くと,国道地蔵尊がある。 昭和7年(1932)に建てられたそうだ。昭和初期,増え始めてきた車と人々への警鐘を鳴らし,交通安全を常に願って,見守り続けているのだろう 天上川を渡って,三王神社の先を右に入り,本山南中のあいさつロードを歩いて行くと・・・ 花松くび地蔵さんがいらっしゃる 大正6年(1907),首から上の病気に霊験あらたかだった花松地蔵の後を受けて,地域の人たちによって建立されたのだという。二度見してしまった 住吉川手前で国道に合流し,住吉橋を渡って行くと,有馬道の碑があり,本住吉神社の壁の一角にムクノキが聳え,ここが西国街道であるという石碑も建てられていた。 ここから左折して御影坂を行くと御影中学の前に名残りの松があり,天神川に架かる一里塚橋を渡ると,石屋川の手前に徳川道起点の案内板があった。 交通の要衝だったようだ・・・ 西国橋を渡ってしばらく行くと処女塚道標というのが建っていてついフラフラとそっちの方に向かう・・・ 処女塚古墳に行く。 塚の上は広場になっていた。 乙女に恋した男2人が心を射抜く争いをしたが,思い悩んだ乙女が命を絶ち,男2人も後を追ったという。なんともピュアピュアな悲劇をこういう形で弔っているようだ。だけど・・・ 「お前らもうちょっとシャキッとセンカイ!」と言いたくなる話でんな・・・ 都賀川を渡り,国道2号線に合流すると,そこに大正15年(1926)建立の厄除東向八幡南一丁の碑があり,西灘を過ぎて右へ向かい,西郷橋を渡って右斜めの道に入り,脇浜子安地蔵尊を横に見て,高架を抜け,脇浜公園へそのまま直進して行くと・・・ 大安亭という名の,人気の高い浪花節の寄席小屋があり,その周辺に商店街ができ,今も大安亭市場として残っている・・・ 春日野道をまっすぐ進み,生田川を越えて・・・ 澄覚法親王の歌碑がある。 「布引の 滝見て今日の 日は暮れぬ 一夜宿かせ 峰の笹岳」 オッサンが寝とる 三宮へ続く雲井通りだ・・・ 正面がJR三ノ宮駅だ。通りの出口付近左手に,雲井亭という中華がある。イケマッセ 生田神社へ向かう・・・ 延喜18年(800)に洪水があった。生田神社には松が植えられていたそうだが,洪水を防ぐことができなかった.以来今に至るまで松は一本も植えられていないそうだ。 「えぇ~⁉オレの所為かよ」 松が怒ったそうな 生田の森を散策し,クスノキの切り株や包丁塚を眺めたりしながら・・・ 15時15分,JR三ノ宮駅へ約5時間のほぼ地元歩き旅でした こんな感じで,西への旅が始まった 2009年は,お盆の真っ最中で,人出はそうでもなかったけど,暑くてアスファルトからの照り返しにうんざりしながらも,取り憑かれたように歩いた・・・ さすがに今日はそんな歩き方はせずに,旧道の趣きをゆっくり楽しむような風情で歩を進めて行った。 歩き方にも余裕ができ,気持ちにもゆとりが生まれた。楽しむということの本質に少しづつ触れて行くような気分になって歩いている でも急いでいないにもかかわらず,先へ先へと足を伸ばそうとすることはきっと好奇心の表れなのだと割り切って,歩けるうちはてくてくトボトボ時々ワッシワッシのスタンスで行こうと決めている・・・<2011年2月22日(火)の旅日記に写真を編集し,若干のアレンジを加えて,2020年5月20日(水)に記>