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カテゴリ:人生・よのなか
自分の健忘症について日記に書いた翌日、テレビ(CBS)で「異常に記憶力のよい人」についてのドキュメンタリー番組をやっていた。 むかし、『特ダネ登場』だの『びっくり人間大集合』だのいった番組に、会場の参加者の名前をすべて覚えられる記憶の達人なんかがたまに登場していたが、こういう人たちの能力はあくまでその場でだけ覚えていればよい典型的な短期記憶である。しかしこのドキュメンタリーに登場した人たちのスゴイところは、別に「覚えよう」という努力を一切しなくとも、過去に身の回りに起きた出来事をすべて思い出せるというのだ。 ![]() この人たちは、何年前の何月何日の何時頃に自分が何をしていたとか、まったくランダムに尋ねられてもすぐに思い起こすことができる。その日自分がどんな服を着ていて、昼食に何を食べて、誰とどんな話をしたかといった詳細をすべて想起できるのだ。その日に起きた時事的な出来事も(その時たまたま未開の地でキャンプでもしていない限り)やはり覚えている。 たとえばこんな感じだ。 Q1) 1989年3月24日にアメリカでどんな災害が起きたか? Q2) 1989年6月4日に起きた大きな出来事は? Q3) 1990年2月11日に起きた歴史的な出来事と言えば? Q4) ニルヴァーナのボーカル、カート・コバインが拳銃自殺をした年月日は? (A1.エクソンの原油タンカーの座礁と原油漏れ、A2.天安門広場の虐殺事件、A3.南アのネルソン・マンデラの釈放、A4.1994年4月5日) だいたい何年の出来事かくらいまではオレでも思い出せるが、月日までは覚えていない。彼らの場合、「そのニュースを聞いた時にどこで何をしていたか」という記憶とともに、これらの出来事の年月日を何の苦労もなく、まるで昨日の出来事のように明確に即座に思い出してしまえるのだ。現在のところ、アメリカ国内でこのような能力の持ち主が6人確認されているという。 アメリカの研究者たちの間では、このような能力を暫定的に「superior autobiographical memory(特に優れた自伝的記憶)」能力と呼んで研究を進めている。なぜかと言うと、こういう能力の持ち主を研究することによって、人間の記憶という根本的な機能について理解が深まるし、場合によってはアルツハイマーなどの記憶に関わる病気を治すカギとなる可能性があるからだ。 オレも学生時代に臨床心理学の実験演習で迷路の中でネズミを走らせたり電気ショックを与えたりといった「記憶」に関するいろんな実験をした経験があるが、だいたい動物にせよ人間にせよ、記憶を深く刻ませるには“ショック”を与えるような経験を与えるのがいいらしい。要するに、何かを体験するときに「アドレナリン」が流れることによって、その記憶が固着しやすいようなのだ。ペットや人間が事故とか災難を身をもって経験したことが「トラウマ」となって一生残ったりするのは、その時に体内に流れたアドレナリンが記憶を強化しているからである。 しかし、このような「優れた自伝的記憶」の持ち主というのは日常の些事を一切覚えているわけで、何らトラウマになるようなことだけを覚えているわけではない。この点において、これらの能力の持ち主たちはこれまで通説となっていた記憶の「アドレナリン仮説」の反証になるとして、心理学者をはじめとする専門家たちの興味を引いている。 ところでオレはこのドキュメンタリーを見ていて気になったことがある。というのは、人間は一概に「記憶」というひと言で片付けているが、記憶というのは実際には3つの異なるプロセスに分かれている。つまり、 1)何かを知覚・体験したことが脳みそに書き込まれる(書き込み・刻印)(=レジストレーション) 2)その書き込まれた記憶が、頭の中に保持される(保存・保持)(=リテンション) 3)頭の中に書き込み・保存されている記憶を検索して取り出す(呼び出し)(=リコール) 「何かが思い出せない」というとき、それはちゃんと脳みそに書き込みがされていて、きちんと保存もされているのだけれども、脳内から検索して呼び出すことが出来ないだけなのか(「もう喉のすぐそこまで出掛かっている」なんていうのがこの場合)、 あるいは書き込まれた記憶が脳内で破損・腐敗してしまい正確な形で取り出せないのか(父親が、実際には弟がやったことを、兄がやったこととして記憶しているような場合)、 あるいは体験したことが脳みそに書き込みされずに右の耳から左の耳に素通りしてしまっているのか、 少なくとも3つのプロセスのうちどれかが機能していないと考えられる。 オレの考えでは、「思い出せない」場合の大多数は、1)の「書き込み」も2)の「保持」の機能も問題ないのだが、その「呼び出し」が出来ないだけだと思われる。たとえば、人が死ぬ前の瞬間に自分の人生をまるで走馬灯のように想起する「走馬灯現象」というのが報告されているが(トイモイ氏の先日の日記参照)、大体の場合、普段なら思い出そうとしても思い出せないような記憶までがビビッドに蘇るそうである。これは要するに、見聞・経験したことは自分が意識していなくとも脳みそのどこかに刻印・保存されていることを示している。 一方、ボケ老人が自分の孫を娘の名前で呼んだりするケースは、明らかに記憶が脳内で混線してきており、2)の保持・保存機能に障害が発生していることが伺えるし、朝ヒゲを剃ったばかりなのにまた洗面台に立ってヒゲを剃り始めたりするのは、1)の書き込み・刻印が機能していない(惰性で反射的にやっている)ことを示している。 まあ、1つだけ言えるのは、この「異常に記憶力のよい人たち」というのは、1)の「書き込み」機能も2)の「保持」機能も3)の「呼び出し」機能もすべてが優れているということである。つまり、いくらアドレナリンを体内に生起させたところで、1)の「書き込み」機能を強化し、多少は2)の「保持」機能にも影響を与えたとしても、3)の「呼び出し」能力についてはほとんど影響がなさそうだということだ。つまりアドレナリン仮説は肝心の記憶の「呼び出し」機能についてはまったく説明していないと思われるのだ。 ところで、これらの「異常に記憶力のよい人たち」にインタビューして判ったことは、5人中4人は独身でガールフレンドやボーイフレンドもおらず、またほぼ全員が「強迫神経症」的な性癖の持ち主であることであった(ちなみに男性3人はみな左利きで、脳のスキャン撮影をすると全員の側頭葉と尾状核が異常に発達しているということであった)。 こういう能力の持ち主は、まるで「誰も知らない国の言語を流暢に話す」能力を持っているようなもので、誰もが孤独に感じがちであった。なぜなら、友達と話していて「...ほら、何年の何月何日に、誰クンと誰チャンと、どこどこに行って、何をしたじゃない?」なーんて話を振っても、向こうはポカーンとして話について来れないからである。つまり、その能力の持ち主にとっては「昨日のような出来事」が、ほかの人たちによっては「遠い過去の忘れ去られた出来事」だったりするのだ。 それに、友達や恋人と「言った・言わない」のケンカになっても自分がゼッタイに正しいのを知っているから譲るに譲れないし(笑)、結果的に相手には「可愛くないヤツ」と思われてしまう。 あと、強迫神経症的な性格というのも、例えばちょっと何かに触っただけで手を洗わずにはおれないとか、壁に掛かっている絵がほんの1度くらい傾いているだけでも気になって直さずにおれないとか、朝食にシリアルを食べた後は必ず砂糖を1つ入れたコーヒーを3分以内で飲まないと気が治まらないとかいった病的なこだわりというのは、細かいことをいちいち覚えているのには役立つかも知れないが、一緒に生活をする相手にとっては煩わしくて仕方がないに違いない(笑)。 要するに、凡人にとってこういう特殊な人たちというのは傍で見ている分には面白いけど、直接的な関わりを持つのは厄介な人たちだということだ。 ただ、面白いのは、これらの「異常に記憶力のよい人たち」が自分の持つ人並みはずれた能力に悩みつつも「この能力を持っていてゼッタイよかった」と異口同音に断言している点だ。 なぜかというと、毎日の些事を覚えている人たちにとっては人生の瞬間瞬間が意味を持っているわけで、彼らは毎日の一瞬一瞬を「特別なもの」として意図的に過ごしているからだ。 我々凡人は毎日を判で押したかのように惰性で過ごしがちであり、したがって今日の出来事も昨日の出来事も昨年の今日の出来事もぜんぜん区別がつかなったりする。我々が2002年の10月3日の出来事を思い出せないのは、2002年10月4日も2003年10月3日もきっと代わりばえのしない生活を送っているからだ。 そういう意味で、こういう人たちは、我々が小学生だった頃のように異常に密度の高い生活を何歳になっても送っているに違いない。 オレ自身は小学生時代に比べたら5分の1くらいの密度しかないスカスカの日々を送っている(=時間が当時の5倍の速さで過ぎている)しがない中年オヤジだが(笑)、ハッキリ言ってこれくらいで丁度いいと感じている。毎日があの頃のように(あるいはこの人たちのように)「意味」に溢れていたらやり切れないと思う。人間がボケるというのも、凡人にとってはあまりに密度の高い過去の記憶の蓄積というのが重荷になるからのような気もする。誰が言っていたか思い出せないが(笑)、「忘れる」というのも人間の重要な能力のひとつだとオレは思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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