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カテゴリ:精神障害者1級の者の日記
部下にしかならない料理、或いは、アウトプットは誰もしない。損させられるだけだから。
蛇校長はマイナス存在だから、背負えない。即ち、それ以上、前進できない。境地だけ。 私は、蛇校長(HT校長)が着任してきて、3年半後に、統合失調症を発症させられました。6年後に、F市立T中にいない職員にされました。だから、歓送迎会に、出席できませんでした。そして、その年度を3ヶ月弱、異動後のF市立F中に於いて、奉職致した後、療休に入れられて、クビにされました。 しかし、歓送迎会に出席する事はできませんでした。もし、出席していたら、サタン化させられて、全てパーにされてしまったからです。もう、生きていても無駄、有るのは、絶望の闇だけという状態にされてしまうからです。私は、この状態を、デジタル化・インターネット化(住基ネット化)・物化・失礼化・ミーハー化等と、感じます。 ミーハーという存在とは、言論を交わす事が不可能なのです。無知性存在だから。失礼存在だから。 lowbrow ━ 【名】【C】【形】【A】 《口語》 教養[知性]の低い(人) (⇔highbrow). New College English-Japanese Dictionary, 6th edition (C) Kenkyusha Ltd. 1967,1994,1998 辞書には、教養[知性]の低い(人)と有りますが、私には、「低い」のではなくて、「無い」と感じられるのです。メンタル体・善なる意思・霊界が全く無い存在なのです。感情、即ち、幽体しか無い存在と。スターのファンとも言う。自分が無いから、スターの付属物・眷族と致してしか、存在致していないと。狛犬とも言う。鉄砲、或いは、鉄砲玉とも言う。野良犬とも言う。家の子、家来、子分、郎党、取り巻きとも言う。チンピラのさらに下の存在と。チンピラは、チャラチャラしているけれども、自分を持っている。しかし、ミーハーは、自分を持っていない。だから、失礼な事をするのです。単なる言論に、感情的攻撃をするから。言論、即ち、思考と、感情とは、別次元の存在なのです。メンタル体とアストラル体は、存在致している世界が異なっているのです。だから、思考には、思考で、感情には、感情で、相対致して下さらないと、対応できないのです。 私の世界に於いては、自分の芯・核という事になります。これを無くしてしまうと、子犬ちゃん、仔猫ちゃん等という存在に堕ちると。海外に於いては、人身売買致されている存在と。見栄えの良い女の子の場合は、慰み物と致して、男の子の場合は、奴隷と致して、売買致されている存在と。年収1千万円以上の高給取りなのに、その現実は、海外で、人身売買されている存在に堕ちている。そういう現実が有ったのです。見た目には、物凄い身体障害者の状態になっていると感じられると。そのオーラに触れたら、即、自分のオーラも、身体障害者にされてしまうという状態です。何がいけなかったのかというと、自分の父親、或いは、男に、娘、或いは、女の支払いをしていなかったから、そういう状態に堕ちてしまっていたのです。マネキン、お人形さんとも感じます。 こういう状態ではいけないのです。動物化=オーストラリア化、機械化=米国化致してはいけないのです。 私がテレビに登場する女達を見ていて、今思っている事は、世の中は、バーサス、対抗であるという事です。大体、プライドの高い雌は、悪魔化致すと。プライドの低い娘=父親は、さっさと結婚致すと。未熟な男である夫の母親を致し続けるしかないという大人の人間性が有るのが、娘=父親と。 これが無いと、未熟な雄に、有り得ない期待を致し続けて、悪魔化致すところまで、重症化致してしまうのです。ポイントは、雌は、雄としか、縁を持てないという事です。娘は、息子と縁を持つという事です。親子の信頼関係をやっていない雌は、同様に、親子の信頼関係をやっていない雄としか、縁を持たないのです。 娘と雌は、これ位、中身が異なっているのです。 私が思う雌への助言、アドバイスは、爬虫類に墜ちろという事です。オーストラリアのコアラやカンガルーでは、日本国を生き抜いていく事ができないのではないかと思うから。身体障害者化致されて、機械化=米国化致されてしまうか、動物化=オーストラリア化致されてしまうと。世の中、金だけではないのです。自分の身体、肉体を養い続けなければならないのです。 私は、もう余生を生きているので、鰐や、肉食動物をやって、弱い者達を襲って、食べて、背負うという事は致しませんが、まだ、生きていく事が必要である場合は、食物連鎖の摂理を理解しなければいけないのです。食物連鎖の摂理とは、より存在価値の有る者が、より存在価値の無い者を食べて、背負うという事です。これが、食物連鎖の摂理なのです。企業が、他の企業を吸収するように。合併するのは、結婚と。吸収するのは、食べるという事です。神は、どうも、こういう事をさせ続けていると。飲食する、或いは、インプットするというのは、そういう事であると私は思います。 逆に、料理を創って、他の方々に食べさせたり、或いは、アウトプットするというのは、貢献、或いは、仕事と。もしかしたら、皆、自分の下の存在は、飲食しないのです。親をやる、子育てをするというのは、損なのかもしれません。だから、誰もやらないと。即ち、上司をやる為に、料理を創って、食べさせたり、或いは、アウトプットすると。部下にしかならない料理、或いは、アウトプットは誰もしないと。損させられるだけだから。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009.04.16 04:49:22
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