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カテゴリ:YS超神霊の摂理
これが夫の生きる道であり、父の生きる道であるのだ。&人間の「心」
http://news.ameba.jp/weblog/2009/08/42685.html 新幹線で騒ぐ子供 中田英寿から注意されても聞かず 8月01日 14時04分 元サッカー日本代表の中田英寿氏(32)は現在47都道府県を回る旅の最中だが、自身の日記で人々のモラルについて語っている。 中田氏は行く先々で勝手に写真を撮られるケースが後を絶たないのだという。中田氏は訪れた場所を自分の足で歩き、色々なものを見たいのだが、写真を撮り続けられたり騒ぐ人がいるとそうもできないのだという。 中田氏は「俺を見かけたり、出会った場合も、普通に話をして欲しいと思う。じゃないと、俺もみんなも、嫌な思いをすることになるし、せっかくのみんなとの“出会い”が無駄になってしまう」と語り、写真を撮りたい場合は必ず聞いて欲しいと訴えた。 また、新幹線に乗った時、一人の子供が車両を騒ぎながら走り回っていた場面に遭遇。周囲に多大なる迷惑をかけていたようだが、両親はその子供を注意しなかったため、中田氏が注意した。だが、子供は言うことを聞かなかったというのだ。結局両親に言い、子供は静かになったという。 これらの出来事を振り返り、中田氏は「社会の中での“教育”や礼儀というものが、最近はおろそかになってきていると思う」と問題提起をした。 ※はっきり言って、神はやるべき事をやっていない。だから、その子供を注意しなかった両親は、その子の親ではないと私は思います。それは、蛇なのだ。親に明らかに反逆しているから。おそらく、その両親は、覚悟を既に、持っていると思われます。もう、その子を他人と心の中で、信頼関係を切っていると。私なら、蹴飛ばしますが。私は蛇を指導するので。愛の鞭ではない。脅しなのだ。他人様に迷惑をかけたら、その分、オマエをシバくという。私は、これが、普通の家庭であると思います。両親は怖い存在と。自活できる能力を得るまでは、この両親に食べさせていただかなければならないから、我慢しなきゃと思わせ続けるという事です。これ程、子という存在は、親の言う事など聞かないに決まっているのだ。勿論、家出するかもしれない。それはそれで覚悟しなければならないと。こんな事は、あたりまえだと思う。 即ち、親は、子に、プラスの酬いを期待しないという事です。世の中、そんなに甘くないから。親の地位というのは、プラスである。即ち、得る事が非常に困難であるという事です。勿論、男の地位も。男は、女からプラスを得ようなどとは全く思っていない。そういうエゴ、甘さを棄てているから男なのです。親も、子から、プラスを得ようなどとは思っていない。もっと、エゴを棄てているのだ。 私なら、注意などという偉そうな事は絶対にしない。「私に迷惑をかけるな。」という。上からではなくて、対等に扱う。何故なら、子ではないから。一人前に、世間に、喧嘩を売っているのだから。即ち、チンピラと。暴走族と。だから、力勝負なのだ。オマエは、私の言う事を聞くのか、否かと。勿論、聞かないのであれば、戦うという事だ。私の人生、これまでかと。この蛇を蹴飛ばすという事です。顔面を殴るという事です。この位、覚悟しなければならないのが大人なのだ。米国では、即、ピストルを抜かれると。目の前の蛇を倒して、刑務所に入れられる。これが最低限だから、しかたないと。神が私に与えた運命と。私は女の腐ったのではないから。蛇との闘いには、全力投球と。 この真剣な生き様を毎日、毎日、致し続けるのが、夫婦生活であり、親子生活なのだ。逃げたら、その未来は、粗大ゴミ。これが夫の生きる道であり、父の生きる道であるのだ。 さて、何故、男と父は、そういう事をしなければならないのか? それは、男には女、父には子という副担任が支払い致されているからである。この副担任が、超莫大・超膨大な幸せを自分に支払い致して下さるからである。だから、その支払いを致さなければならないと。そういう事です。世の中には、プラスとマイナス、光と影、陽と陰、幸福と不幸、快楽と苦痛、等々、様々なプラスと様々なマイナスとがセットになって、存在致している。だから、プラスを与えられたら、その分、マイナスを背負わなければならない。というか、プラスを与えられた分、マイナスを背負わされる。何故か、それをしないと、世の中が、崩壊してしまうからである。存在は、そういう仕組みで成り立っているのです。 だから、私はプラスの地位を何も得ない。神は、プラスの地位を得た者を殺害致し続けているから。だから、神は、嫉妬の神と言われていると。神は、ヒーローを必ず、殺害致している。或いは、地獄のどん底に墜としている。だから、私は、栄光を自分のものにしてはいけないのだなと悟った。仕事をさせていただくだけで、その酬いは自分のものにしてはいけないのだと。 確かに、神の栄光は称え・讃えられてはいない。存在を忘れられている・無視されている神を差し置いて、ヒトが栄光を得るのは、間違っているであろう。私も、これを間違っていると思う。 例えば、プロの野球選手が、世界大会で、優勝できた時、優勝できたのは、誰のお陰か。その喜びを自分のものにしてしまうから、その後、胃を全摘出されるという報いを得たり、或いは、その他の身体障害を持たされてしまったと私は考えています。異常な状態である今の社会ではなくて、普通の状態である昔だったら、そういう大きな栄光を与えられたら、その栄光に見合う社会貢献を致していたと。それで、自分の喜びは無くなって、残るのは、偉いと思われる行為だけと。そして、他の人達も、自分達も、世の中の為に、頑張ろうという清々しい思いの世界と。私は、これが普通であると思う、古い、超古い? 人間なのです。勝利の喜びは、確かに嬉しいと思われますが、エゴイスティックにも感じられる。ナルシストとも、感じられる。だから、それを許している世の中、もう、堕ちるところまで堕ちたなと感じるのです。終末と。 人間の「心」が失われてしまっていると。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009.08.05 21:13:29
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