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カテゴリ:YS超神霊の摂理
自己実現をすると天狗になるが、野球を通して人類を幸せにすると天国へ。愛行&善行。
http://gree.jp/9191237/blog/entry/293736485 コメント 1. ☆ユナユナ☆ (5) - 2009/08/29 02:11 読む価値ゼロ(笑) 2. 人369 (18) - 2009/08/29 03:03 ☆ユナユナ☆さん: > 読む価値ゼロ(笑) 自分にとって、読む価値がゼロであると思ったのなら、黙って、通過・スルーしなければいけないのです。私の心をグサッと打ってはいけないのです。 こんな事を私に言ってきたのは、椿姫彩菜かなと思いました。父親を裏切っているから。 しかし、私はまだ童貞なので、椿姫彩菜の上の地位ではないし、上の地位にもなりません。だから、責任は有りません。だから、私は、彼女の事を勿論、認めています。(私は、肉体によって、男女の性別を判断致します。だから、彼女と思っています。彼女も、もう、男のペ○スを受け入れていて、その男の女になっているのかもしれないし、これから、女になっていくのかもしれません。私はこういう考え方を致しています。) しかし、彼女には、愛する男の、子を受胎して、生み育てるという事はできないのです。この事によって、彼女は、血の涙を流し続けなければならないのです。(本当に好きな男ができたら、その男の、子を生み育てたいと思うから。男女の愛よりも、息子の父親と母親との愛の方が、遥かに深いから。完成アダムと完成エヴァの夫婦愛の世界と。) その境地まで到達できたら、神に真剣に祈って、愛する男と来世、夫婦になれるように、祈って下さい。勿論、再臨協助霊としてしか、生まれ変わる事はできませんが。 以上、椿姫彩菜の為に、書きました。心をグサッと打たれた御返しです。 3. ☆ユナユナ☆ (5) - 2009/08/29 10:35 その通りだ 感動した 朝日新聞 2009年(平成21年)8月29日 土曜日 からの引用 作家の口福 村山由佳 食べること「犠牲の上のいのち」を忘れない これまでで最も印象に残っている食事は何かと訊かれたら、迷わず答えられる。モンゴルの大草原で、遊牧民の男たちに料理してもらって食べた「ヤギ肉のシチュー」だ。 あの旅から日本へ帰ると、私は会う人ごとにクイズを出した。 「何日もかけて真夏の草原を馬で旅するのに、ヤギの肉を腐らせずに運ぶにはどうすればいいでしょう」 たいていの人は、さんざん首をひねったあげく降参だと言った。 答えはー「生きたヤギを連れていく」である。知ってしまえばいかにも簡単な答えだ。 にもかかわらず思いつけない人が多かったということは、私たちがふだん、どれだけ家畜の生き死にに対して鈍感になっているかのあらわれなのだろう。「いのち」が「肉」になる現場はなかなか私たちの目には触れないから、私たちはつい都合よく忘れ去ってしまうのだ。 とはいえあの夜、遊牧民たちが無言のまま生きたヤギを肉にしていく一部始終をそばで見ていても、私は気持ち悪いとも残酷だとも感じなかった。肉はスーパーで買うものと思っていた私にとっては脳みそが二重にブレるくらいの衝撃だったにもかかわらず、神聖な宗教的儀式を見ているようで、体じゅうがかたかた震えるほどの感動に打たれていた。 肉ばかりか、皮も、臓物も、血も、何ひとつとして無駄にしない人々の知恵。鮮やかな手さばき。 冷たい夜気の中、立ち働く男たちの背中からも、ヤギのおなかからも、白い湯気がほかほかと立ちのぼっていた。 そうして、翌日。1日じゅう馬の背に揺られて疲れきった私の前に、一人が熱い皿をさしだしてくれた。コンソメで味をつけ、圧力鍋でゆっくり煮込んだ、ヤギ肉と野菜のシチューだ。 新鮮なヤギ肉は臭みもなく、口の中でほろりと崩れた。 その瞬間ー大げさではなく、ヤギのいのちが私のおなかの真ん中にすとんと入ったのがわかった。 食べるということに対する私のスタンスは、あのとき固まったと言っていい。野菜と同じように、肉もおいしく頂く。ただし、自分のいのちが他のいのちの犠牲の上にあることを決して忘れないでおく。 いのちへの<感謝>などという言葉では生やさしすぎる。それはむしろ、<哀しみ>に近い。 食べるとは、生きるとは、あらかじめ哀しいことなのだ。 だからこそ、いつかは失われるいのちが愛しい。 ◆来月の書き手は井上荒野さんです。 ※朝日と夕日からは情感を得ます。日々、営まれる生命を感じるからです。 2009.8.29.Sat. 22:25 現実が少し、返金致されて、状況が変わったので、この状況下で、改めて、自分が通過してきた現実を分析致します。それは、この世はマイナスであるという事です。だから、私が県立高校で、臨時理科実習助手と致して、働いていた時も、1年半後に、右眼網膜剥離に致されて、4週間入院させられてしまったと。市立中学校教諭と致して、働いていた時も、6年目に、HT校長が着任してきて、HT校長が致した人事によって、7年目は預貯金0円にされて、9年目の10月には、統合失調症に致されて、その後も、現実を犯され続けて、11年3ヶ月弱後に、療休に入れられて、クビと。 両方とも、マイナスの人間(業・カルマを抱えている人間)が、登場してきて、その人間の抱えている業・カルマを背負わされて、病気にされたと分析できます。 即ち、神は、おそらく、我々を幸福に絶対にしないのです。次から、次へと、無理難題を持ちかけてくるし、サタンの罠・トラップを仕掛けてくるし、で、総力戦のような気が致します。総力戦なので、文書にできません。総合力の勝負の連続だから。今、悪霊が、美味しい思いと言いましたが、私は、美味しい思いは絶対にやりません。何故か。美味しい思いをしてしまうと、必ず、した分だけ、下っ端にされてしまうからです。自分の総合力がダウンしてしまうのです。人間は、常に、向上し続ける存在なので、美味しい思いは、永遠にしないのです。常に、アップする為に、不味い物を食べ続けると。私は辛い物は食べませんが、世間には、辛い物を好んで食べている方々も一杯いるように思います。これが普通の人であると。美味しい物を食べるのは、サタンであると私は思います。死んだら、地獄へ直行と。 「商品には手を出すな。」 美味しい思いをするのは、御客様。自分は仕事をすると。 Y○さんも、美味しい飲食物を宣伝する事が、役目なのだから、コメント能力をつけるだけで、舌を通過した後は、自分の胃に送らないと。その飲食物に、興味関心を持たれた方々の胃に送ると。これで仕事と。仕事だから、自分の身にしてはならないのです。密教には、供養法という修行方法が有ります。弟子達は、自分が摂った飲食物の味覚の喜びを、霊界の師に供養するのです。自分は味わわないと。霊界の師は、供養を受けた分、その弟子を背負うと。それで背負ってしまった業を、霊界での瞑想・祈りの修行によって、昇華するのです。その事によって、霊体が大きくなって、その分、上の霊界へ行けるという仕組みです。私が毎日、やっている修行もそれなのです。業を背負って、背負った業を昇華して、自分の霊体をさらに大きくするという事を毎日、続けているのです。 例えば、私が野球選手だとしたら、記録を残す為に、努力はしないのです。野球業界全体を活性化する為に、記録を残すのです。即ち、記録を残すという事を、自己実現ではなくて、仕事にするのです。ビジネス=金にするのです。格好いい演技をするだけと。自己実現をすると、天狗になるのですが、野球を通して、人類を幸せにすると、天国へ行きます。愛行であり、善行であるから。 野球が楽しいのではない。仲間がいるから楽しいのです。私はそう思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009.08.30 03:23:56
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