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2020年01月31日
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テーマ:現代俳句(52)
カテゴリ:句集

句集探訪1『寺田京子全句集』その1

病身の幸・未婚の幸        松田ひろむ

 

二〇一九年六月二十二日、待望の『寺田京子全句集』(現代俳句協会)が刊行された。寺田京子は一九七六年(昭和五十一年)逝去であるから、すでに四十三年後ということになる。

寺田京子といえば〈樹氷林男追うには呼吸足りぬ〉などで印象に残る+-作家であるが、こうして没後四十年を越えて全句集が編まれるとは思ってもいなかったであろう。没後に全句集が編まれる作家こそが本当の俳人といえる。

現在は生前に句集を出版することは比較的容易である。しかし、没後に遺族が遺句集も出す場合を除いて、没後の句集は稀である。そうした点でも本書は注目の書である。

刊行は、寺田京子全句集刊行委員会で、それは小檜山繁子・加藤瑠璃子・九鬼あきえ・神田ひろみ・江中真弓・宇多喜代子で、栞に林桂「雪の精」、解題は江中真弓、後記は宇多喜代子である。女性は宇多喜代子を除いて加藤楸邨門。林桂を除いてすべて女性である。

全句集を出すにはまず著作権の問題がある。著作権継承者の了解が得られれば問題はないが、それが得られない場合は頓挫することとなる。さらに困難なのは継承者が不明の場合である。本書は宇多喜代子の「後記」に

 

手を尽して寺田京子のご遺族や関係者などを探したがいずれも不明、生前、寺田京子と親しかった平井さち子も先年なくなった。したがってしかるべく手続きを経て、『寺田京子全句集』刊行委員会の責任においての出版となった。 

              

とあるように継承者不明のそれに該当する。つまり著作権の問題はクリアされているとはいえないのである。しかしそれを出版するのは勇気である。こと勿れ主義では絶対になし得ないものである。そうした面でも宇多喜代子の「勇気」に改めて敬意を深めている。

第一句集『冬の匙』

江中真弓は「解題」で次のように書いている。

 

昭和三十一年五月二十八日、札幌ペンクラブより刊行。B6版、美装。二一四べージ。一ぺージ二句組。昭和二十二年から昭和三十一年までの作品三三〇句を収める(表記は歴史的仮名遣による)。序文は随筆家森田たま。跋文は加藤楸邨。それぞれ七ぺージある。装幀、村山陽一。定価二八〇円。

寺田京子は大正十一年生まれ。少女期から療養生活を送り、友人の勧めにより句作を始める。地元北海道の俳誌を経て、昭和二十三年より加藤楸邨に師事、同二十九年「寒雷」同人となった。

句集の跋文で加藤楸邨は、寺田京子の作品について、息の太さ、屈折感をリアルに生かす柔軟さ、物を眺め切る鋭い目を通した美しさを指摘している。

病床の記録だが、いわゆる療養俳句として、今までの人の詠ったものとは全く異質の作品群である。俳句即生活の日常と優れた表現力、知性、才能、意志とが相まった寺田京子の原点となった句集といえよう。

著者は「あとがき」で、この句集はいわば自らの花嫁姿であると書き、句集名は、〈少女期より病みし顔映え冬の匙〉からとったと記している。

 

をんな臭きわれのほとりの日の氷

句集冒頭二句目である。「をんな臭きわれのほとりの」で切れるのであろう。「日の氷」がやや難解である。

ここでは加藤楸邨の「「冬の匙」のあとに添へて」がその微妙な屈折をしっかりと見ている。氷の清冽さと対比される人間臭さ、女臭さなのだ。

 

日の反射をまぶしみながら、それを美しいと感じるかはりに、女臭い自分が意識される。氷はただの物体ではなく、女臭さを呼びさます生き物のやうに存在してゐる。氷は寺田京子に対する生き物のやうにとらへられて却つて美しくなる。

寺田京子といふ、若い病身の一女性は、常に俳句をかういふ屈折の中で生みだしてゆく。しづかな観照は殆どこの作者には用がないやうにさへ見える。この屈折のある把握は自分がしつかり立つてゐなくてはできない。つかんだ物に負けてしまふからである。屈折を力づよく言い切るためには、息が太くなければできない。杉田久女、竹下しづの女などの先人にはこれがあつた。寺田京子はこれら先人よりもつと息が太い。言葉の激しさにたよらず、屈折感をリアルに生かさうとする柔軟さがあるからだ。

 

少女期より病みし顔映え冬の匙 

彼女の結核(胸部疾患)は後遺症を含めついに治癒することはなかった。「顔映え」は美しい意味ではなく、微熱のつづく状況であろうか。匙は病食に欠かせないものかも知れない。そういえば「匙」ということばも死語に近くなった。いつの間にかスプーンというようになってしまった。そのスプーンに映っている顔である。冬は北海道の象徴であるかもしれない。

酒井佐忠も「冬のスプーンに映るわが顔に複雑な心理が揺れる。思いの深い句なのだが、いわゆる「療養俳句」の範疇に収まらない言葉への鋭い感覚があった。」(「毎日新聞」二〇一九年九月十日東京朝刊〈詩歌の森へ〉)とする。

少女の時から病のなかに生きぬいた寺田京子は言い換えれば選ばれた人であった。

神は彼女に病を与え、そしてそれを超克してゆく俳句を与えたのである。結論を先に言うようであるが、それが「病身の幸・未婚の幸」である。

健康で長寿を満喫し、結婚し子を成し、孫を得る幸と、俳句の幸とは反比例するのかも知れないのだ。彼女の句はそうした凡百の俳人への叱咤激励でもある。ただし「長寿」の先に待っている老病死はだれにでも平等に与えられている。

 

ひばり鳴け母は欺きやすきゆゑ 

 今井聖は「男からみると恋人や妻は強く恐い存在であり、母は無条件で許してくれる存在である。」と一般論的に解するが、どうだろうか。「欺きやすき」というが、ちょっと病状を重く言う程度の甘えであろう。母に甘えるのは常識であるが、「欺く」といって独自の句になるのである。母を頼らざるを得ない病身の愛の逆説的な表現でもある。ひばり(雲雀)はその母の表象である。

 

母というものは欺きやすいものであろうか。女は弱しされど母は強しという。男からみると恋人や妻は強く恐い存在であり、母は無条件で許してくれる存在である。金子兜太の句に「夏の山国母いてわれを与太と言う」。与太と言われようと子は母の愛情を疑うことはない。この句は娘という立場から母をみている。同性から見た母は息子から見た母とはかなり違うのだろう。ひばり鳴けという命令調にその微妙な感じがうかがわれる。『冬の匙』(1956)所収。(今井聖「増殖する俳句歳時記」March 1832011

 

一生未婚洗ひし足袋が合掌す  

このころ病状は一進一退だっただろうか。『冬の匙』では、母に看取られ、母を看取りそして母の死と残された父。そして妹を嫁がせた時である。

「一生未婚」とは一生結婚しなかったというのではない。一生結婚は出来ないとの気持である。しかし、それを肯定しているわけでもない。洗った足袋を左右合わせて干している姿。それが合掌と見えたのだ。合掌はいうまでもなく祈りの姿でもある。しかし彼女にはすがるべき神仏はいない。また切ない悲しいなどと、同情を求めているのもないことは、句集一連を読むと明らかである。足袋は合掌しているが、作者は合掌していない。つまりは生きて行く意志の表明である。

未婚といいながら、女性として恋もし、結婚もしたかったに違いない。生々しい「生理」の語の句〈息かけてかげろふ飛ばす生理の日〉、〈末枯や眠りの中に生理くる〉の句も『冬の匙』を彩っている。

 

 菜屑捨てしそこより春の雪腐る  

「春の雪腐る」の状況については、以下の清水哲男の文に明らかであるが、私はちょっと違う読みをする。この「腐る」は女性の肉体感のように思えるのだ。日常の生活は何かを汚し、腐らせていることに他ならない。それが体感として表現されているのである。

 

自治体によるゴミの収集がなかった時代には、裏庭などに小さな穴を掘って、句のように無造作に捨てていた。春の雪は溶けやすいから、ばさっと菜屑を捨てると、すぐにその周辺が溶けて、少々汚い感じになってしまう。そんな情景を、作者は「雪が腐る」と表現した。腐るのは菜屑であって雪が腐るわけもないが、一瞬の実感としては納得できる。たしかに、いかにも「雪が腐る」ような感じがする。言いえて妙だ。ところで、このように燃えないゴミ(現代的定義とは大違いだが)は穴に捨て、紙などの燃えるゴミは庭の隅で燃やしていたころに、誰が今日のゴミ問題を予測できただろうか。ひどい世の中を歎くだけでは何もはじまらないが、菜屑は土に返すべし。菜屑くらいは勢いよくばさっと捨ててみたいものだ。来たるべき世紀の我が国は、この句が理解できない人たちでいっぱいになるだろう。もう二度と、このような情景が詠まれる時代は訪れないだろう。(清水哲男「増殖する俳句歳時記」March 0631998

 

嫁がんと冬髪洗ふうしろ通る  

妹が嫁いだとき句。彼女は前書で「母代りとなりて妹栄子を嫁がす」という。明日の結婚式前に髪を洗っている妹である。それを単純に祝っているわけではない。恐ろしいほどのリアルな眼が「冬髪」であり「うしろ通る」である。

栗林浩は「うしろ通る」に「作者の余情が籠められている」(『続々俳人探訪』文學の森)とし、次の加藤楸邨の語を引く。

楸邨は、

 

これを詠んだときの「うしろ通る」といふ感じ方、把み方は、いろいろのはなやかな感じ方、把み方よりも、ずつと深い美しさを感じさせられる。この美しさは、外へ浮きだした目を瞠らせるやうな刺戟のあるものではない。家の中、病身の作者が、自分に負はされた、肉身の間の位置を、しっかり見据ゑたところから、洗ひあげ、追ひつめたやうな、ふと胸を寒くさせられるやうな美しさである。

 

というが、「うしろ通る」が「ふと胸を寒くさせられるやうな美しさ」だろうか。「美しさ」よりも「ふと胸を寒くさせられるやうな」と捉えた楸邨の理解は深い。またこの文の前にある「私はこの作者の死をいふとき、却つて生といふことを強く感じさせられる。」にも魅かれた。

楸邨と京子の関係は、主宰と地方の投句者との関係で面識はなかった、そのことを楸邨は、

 

この作者は、自分のものをしつかり負つて句集をまとめようとしてゐる。私は作者を身近に見馴れたやうな感じでゐたが、考へてみると、まだ逢つたことがなかつた。手紙でさへ句集を出したいといふ手紙が最初のものであつた。それほど毎月見てきた句が作者の息づかひを濃厚に感じさせるものだつたのだ。私はその親しんできた息づかひについて日頃感じてゐたところを記して、巻末に置いて貰はうと思ふ。

 

と書いている。まさに楸邨ならではのあたたかな文である。〈嫁ぐ荷を送りて北風の縄筵〉の句もある。残された縄筵と作者が重なっていることはいうまでもない。

このように句集『冬の匙』は、森田たまの序文を得、加藤楸邨の跋を得て北方の三十四歳の俳人としてはまたとない華やかな句集である。

しかし「あとがき」で、彼女は「この句集はいわば自らの花嫁姿である」という。この時点で「花嫁姿」というのは、もしかしたら死装束にも重なる思いでもあったかも知れない。なお『冬の匙』のみ、句文とも旧かな遣いである。

林桂は、『全句集』栞の「雪の精」で次のようにいう。

 

「寒雷」誌上で、リアルタィムで寺田京子の作品を読んでいたのは、昭和四十年代後半から五十年代はじめで、京子の晩年に当たる。 京子は好きな作家だったが、その時に抱いた漫然としたイメージと、四十年を経て読む京子の作品は大きく違っている。私はぼんやりとした読解力の少年だった。

靴脱いで青葉の川の恋の色

ガラス沈む峡の川底まつりくる

梨の花の白はかなしげ風のはなし

手元の「寒雷」三五〇号記念号(昭和47年9月)の特別作品「靴脱いで」より引いた。まだ十代だった私には、どこか儚げで少女の面影さえ残る作家に思えたのだった。

 

(けい)(一九五三‐、本名政美。群馬県利根郡生。新潟大学法文学部卒。高校時代「歯車」「寒雷」に入会。高柳重信選の『俳句研究』五十句競作に登場し注目される。一九七八年、澤好摩、夏石番矢らと「未定」創刊。一九九八年、「吟遊」創刊に参加。二〇〇一年、水野眞由美らと「鬣TATEGAMI」創刊代表。「「鬣TATEGAMI」」は二〇一九年全国俳誌協会編集賞を受賞。(ウイキペディア他)

「歯車」‐「寒雷」という軌跡は不思議なことに私とほぼ同じであるが、十五年ほど隔たっている。この(二〇一九年)十二月十一日に全国俳誌協会の編集賞授賞式で席を同じくするまで面識はなかった。林桂はつづけて、

 

しかし、全句集の京子は、圧倒的な言葉の強さを持つ作家である。『冬の匙』の京子は境涯性の高い作家だが、『日の鷹』の京子は社会性の強い作家だ。その二つが融合するように『鷺の巣』『雛の晴』の世界へ向かって行く。 次第に穏やかになるものの、言葉にごつごつ感がある硬派の作家である。同時代にこのような言葉の質を持つ女性作家は希有だろう。 その存在感を改めてここに知る思いでいる。

 

とする。「圧倒的な言葉の強さを持つ作家である。」「言葉にごつごつ感がある硬派の作家」には同感であるが、『冬の匙』を「境涯性の高い」、『日の鷹』を「社会性の強い」とする見方はやや公式的に思える。これについてはそれぞれ具体的に考えてみたい。

 さらに林桂は、句集の構成力をいう。季語順でもなく、編年体でもないテーマごとの配列に注目しているが、寺田京子の意図はわかるがそれが成功しているとは思えない。俳句は俳句であって俳諧でも連句でもないのだからそれを論じても意味はあまりないだろう。

 『冬の匙』一連は、林桂のいうように「言葉の強さ」を持っているが、内容と言葉が必ずしもしっくりとしていない。ちぐはぐな面がないでもない。

 それが最も顕著なのは自身でなく、他者に対してである。それは「血を売る列」に典型的である。

 

  血液銀行界隈鵙のよくひびく

  鵙に血を売る女のかずより荒男のかず

  痩血売りいそぐか小鳥に石飛礫

  音もなく朝冷え血を売る列増ゆる

朝ひまわり散ればおどろき血を売り女

朝向日葵血を売る百の眼に見られ

血を売る列終の向日葵日にむきて

ねむるとき血を売る顔の枯ダリヤ

 

これらの一連の鵙やヒマワリが売血の象徴となっているが、成功しているとはいえない。また林桂のいう「構成力」もあるとは思えず、同じく林桂のいう『冬の匙』が「境涯性の高い」ことでもない。

寺田京子の「圧倒的な言葉と内容が緊密な姿を見せるのは第二句集『日の鷹』を待たなければならなかった。


血を売る

 「血を売る」はすでに死語となったが、売血のこと。

売血とは、自らの血液を有償で採血させること。日本では一九五〇年代から一九六〇年代半ばまで輸血用血液の大部分を民間血液銀行が供給し、その原料は売血で賄われていた。

民間血液銀行は、当時ばく大な利益を得、その後、ミドリ十字などの大手製薬会社となって行く。

日本で輸血用血液を売血で賄っていた当時、過度の売血を繰り返していた人たちの血液には「黄色い血」との俗称がついた。黄色は肝炎の症状である黄疸、また血漿自体の色が黄であることから、赤血球数が回復しない短期間で再び売血することにより、その血液が黄色く見えたことに由来する。掲句の「痩せ血売り」がそれである。

一九六〇年代初頭には、まだ感染症の検査が不十分だったことに加え、売血者はそのほとんどが所得の低い肉体労働者であった。血液を買い取る血液銀行と売血者双方のモラルは低く、加えて売血者集めは暴力団の資金源でもあった。こういったことから貧血や、明らかな肝障害を無視しての雑な売血が横行していた。

結果としてウイルスに汚染された輸血用血液が出回り、医療現場では輸血後肝炎が頻発していた。輸血時に肝炎を合併するリスクは一説には二〇%もあったとされ、当時は医師もこれを、手術の際などには当然甘受すべきリスクとしていたほどである。

一九六二年には、高校生や大学生を中心とした売(買)血追放運動が各地で起こり「黄色い血追放キャンペーン」が張られた。

そのような状況の中、一九六四年、ライシャワー駐日アメリカ大使が刺される事件がおきた。大使は一命をとりとめたが、手術時の輸血により、輸血後肝炎を発症したことが明らかになり。提供者のモラルが期待できる献血制度へと血液行政は大きく舵を切ることとなった。一九六四年に閣議で輸血用血液を献血でまかなうことが決定され、五年後の一九六九年に売血は終息した。(ウイキペディア)

他の『冬の匙』の句を挙げる。

 

嶺に雪少年の頭のぬくとくて  35

林檎甘し八十婆まで生きること 42

霧の夜へ一顔あげて血吐くなり 45

乳房ぬくしバスは町抜け冬の野へ 51

くすりびん窓に荒びの花火あがる 79

死を待つにあらねど白き冬臥床 109

天皇奉迎ゆかずて青き梅を干す 114

エプロンかけをりても病者雪ふる木 134

 

『寺田京子全句集』あとがき 

 

表題『冬の匙』は

少女期より病みし顔映え冬の匙

からとつた。ひと華やかに飾る娘時代を、薬臭と、視野の限られた病室の壁を相手に、たどたどしく生きつづけて来た無為の私にとつて、この句集の発行は、いはば私の花嫁姿にもなぞらへることができるであらう。嬉しい。

俳句に対決し始めてから「水輪」「壷」を経て「寒雷」に学んだが、その間の作品(二二‐三一年)三三〇句を収録した。また編集するにあたつては、年代と季節に、あまりこだはらず、 自分の心の流れといつたものに従つてみた。

自分の心からみれば、花嫁姿にも思へるこの晴れがましい句集であつたとしても、一句一句、 いかに拙く覚束ない足どりであることか。しかし、しあはせにも、この花嫁は、よきお仲人と、 誇り高い友人代表を得た。すなはち、敬愛する師、加藤楸邨先生から跋文を賜わつたこと、少女時代から傾倒してやまなかった郷土出身作家の森田たま先生から励ましの御言葉を頂戴したことである。両先生にふかく感謝致します。

更に先輩各位の御援助も忘れがたい。戸崎繁、青池秀二、木野工、牛木良雄、山名康郎の諸氏を初め、私の親しい友人たちが、この世間知らずの寺田京子のために、いかに愛といたはりの手を差しのベてくれましたことか、本当に有難うございました。

また、同じ病床の身にありながら、御立派な装釘をお寄せ下さいました村山陽一氏に対しても、厚くお礼申し上げます。

心もとない病軀ではありますけれども、いつそうの精進をお約束し、それがせめて皆さまの御厚情におこたへする唯一の道だと信じ以てあとがきといたします。

昭和三十一年四月                       寺田京子

 

​寺田京子略年譜​

一九二二年(大正11年)1月11日 札幌において寺田家の長女として出生。本名キヤウ。兄に貞一。妹に栄子・慶子の四人兄妹。

一九三九年(昭和14年)旧満州国鞍山女学院入学。(中退)

一九四二年(昭和17年)札幌へ帰国。病弱のため爾来闘病生活を送る。

一九四四年(昭和19年)友人のすすめで句作を始める(栗木重光指導「狭霧句会」)

一九四六年(昭和21年)天野宗軒主宰俳誌「水声」同人。

一九四八年(昭和23年)高橋貞俊主宰俳誌「水輪」同人。

一九五〇年(昭和25年)斎藤玄主宰俳誌「壷」同人。加藤楸邨主宰俳誌「寒雷」入会。

一九五四年(昭和29年)「寒雷」同人。

一九五六年(昭和31年)第一句集『冬の匙』を札幌ペンクラブより刊行。

一九五八年(昭和33年)北海道俳句協会常任委員。現代俳句協会会員。

一九五九年(昭和34年)放送作家として創作を始め、NHK、 民放各局より「ガラスの菊」「鳥」「桜狩り」「インデアン・サマー」等のドラマ作品発表。原田康子、渡辺淳一との交流始まる。

一九六二年(昭和37年)澤田誠一主宰「札幌文学」同人。

一九六五年(昭和40年)札幌市成人学校講師として俳句講座担当。

一九六七年(昭和42年)第二句集『日の』を雪櫟書房より刊行。

一九六八年(昭和43年)同句集の五十句により第十五回現代俳句協会賞受賞。

一九六九年(昭和44年)北海道文学館常任理事。

一九七〇年(昭和45年)森澄雄主宰俳誌「杉」創刊同人。

一九七二年(昭和47年)読売新聞(北海道版)俳壇選者。

一九七五年(昭和50年)第三句集『鷺の巣』を牧羊社より刊行。

一九七六年(昭和51年)6月22日 札幌の長兄宅において宿痾(慢性呼吸不全による心肺不全による。)のため病没。五十四歳。葬儀では原田康子が弔辞を述べた。

追悼号=「杉」昭和五十一年八月号。追悼文・森澄雄、木村敏男。「北方文芸」一九七六年八月号。(出典=『寺田京子全句集』・栗林浩『続々俳人探訪』)
(「鷗座」2020年1月号)

 

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Last updated  2020年02月14日 07時15分53秒
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