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以前、ほんの一時期しか教えたことのない子から、「会ってほしい人がいるから会ってくれ」というので、会ったことがある。 「あれ、あの子は、随分前にやめちゃって、しかも一年も教えてないのに、・・・・」と不思議に思っていたら、某日蓮系カルトの折伏だった!! 「ありゃ、しまった」と思ったが、悪い癖が出てしまって、徹底的にやり込めてしまった。 パターンは、どの新興宗教も同じで、教祖こそが真の救い主(次の仏)、奇跡の証拠がある。いろんな宗教があるが、この道が一番正しい(あるいは近道)。 そして、この宗教に入って、私は救われた。救われて成功している人が居る。 だいたいこのパターン。で、池田教もそうなんだけど、肝心の「法華経」に何が書いてあるかも知らない。 だから、日蓮がなんで「法華経、法華経」と騒いだかも知らない。 なにより、法華経を読んでもいない。 奇跡なんてのは、どこの教祖さんも多かれ少なかれやっている。奇跡を多少起こしたからといって、それが真理なわけがないだろう。 大工崩れのナザレのイエスから骨董やの岡田○○さんもそれなりにだ。 私は、「万教同根」主義者。阿弥陀というもゴット・アッラーというも同じ。 国柄(国魂)に応じた教えがあるのみ。自らの因縁によって道を選べばいいし、独善(己のみが正しい)のは、むしろ悪因縁の元ではないかと考えている。 「ベルセルク」というマンガで、シールケという魔女が、次のように坊主に語ります。 『どれだけ言い表す言葉を違えても 太陽は太陽、光は光です 唱える経文が異なろうと 救いを求める心は同じでしょう? その違いを理由に人を分け虐げるなど愚かなことです。 神の御名は神のもの 人が統べるものではありません。』 ーーーこのシーンには、他にも真理をついた言葉があるのですが、ここでは、ここだけ。ーーーー 未だに、人類はこの愚かな独善から逃れることができないでいる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005.06.27 18:29:33
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