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テーマ:大日本帝国と其の周辺(580)
カテゴリ:大日本帝国興亡史
「杉山メモ(下)」(日米開戦以後)に於いて「御前会議」と明確なのは、1942年12月21日、1943年5月31日、1943年9月30日。
1942年12月21日と1943年5月31日の主題は支那と東南アジア。 1943年9月30日「今後採るべき戦争指導の大綱ほか」では、枢軸側不利の認識下で「絶対国防圏」が設定された、日本は助けが来ない籠城戦を覚悟。 少し前の1943年9月8日にイタリアが降伏している。 ◇ムッソリーニとイタリア王国 1943年7月25日ムッソリーニは失脚した、ムッソリーニの後任として、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世国王が任命したピエトロ・バドリオ元帥が首班をつとめ、新政府は9月8日に連合国に無条件降伏した。 ムッソリーニはドイツが支配下に置いた北イタリアに、ドイツの支援を受けたイタリア社会共和国(RSI)の樹立を宣言し、その首班に就任した、大日本帝国からも内密に亡命の打診が有ったがこれを丁重に断っている、ムッソリーニは「好意は有り難いが、余はイタリアで人生を終えたい」と返答したという。 ムッソリーニは1945年4月28日に銃殺され、死体は同行していた愛人のクラレッタ・ペタッチの死体とともにミラノのロレート広場に逆さ釣りにして晒された。 ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は1946年に退位し、息子ウンベルト2世に譲位する。 だが、ファシスト政権への積極的協力や、降伏直後のドイツ軍の侵攻に国民を見捨ててローマから逃げた姿勢などが非難され、王制廃止となる。 その後、ポルトガルおよびスペインに亡命し、同地で死去した。 ──(「ベニート・ムッソリーニ」「ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世」/ウィキペディア等よりの抜粋・纏め) ◇昭和天皇独白録 私はニューギニアのスタンレー山脉を突破されてから[1943年9月]勝利の見込みを失った。 一度何処かで敵を叩いて速やかに講和の機会を得たいと思ったが、独逸との単独不講和の確約があるので国際信義上、独逸より先の和を議し度くない。 それで早く独逸が破れてくれればと思った程である。 ─── 皇太子明仁は1933年12月23日生まれ、1943年12月には満十歳の誕生日を迎える。 ◇皇族身位令/中野文庫 第十七条 皇太子皇太孫は満十年に達したる後陸軍及海軍の武官に任す 2 親王王は満十八年に達したる後特別の事由ある場合を除くの外陸軍又は海軍の武官に任す ─── ◇「天皇家の戦い/加藤英明」p137~によると(抜粋) 皇太子は、もう11歳になっていた。 一般の国民は気づかなかったが、10歳を過ぎているのに、皇太子は陸海軍少尉に任官していなかった。 ・・・ 天皇は、明治天皇が崩御して、皇太子になると、満11歳で陸海軍少尉に任官している。 この年-昭和20年-3月、近衛歩兵第一連隊では、師団長から少尉に任官され、連隊付になられるという内示があった。 歴代の皇太子は”近歩一”付になる習慣だったのである。 そこで、連隊では営庭に、皇太子用に白木でお立ち台を造った。 ところが、皇太子はなかなか任官しなかった。 昭和20年に入ってから、杉山、阿南両陸相は何回か、木戸内大臣に軍の士気にかかわるといって、催促したが、陛下は「うん」といわれなかった。 春ごろから、天皇は連合国がカイロ宣言によって軍隊の完全解除を要求していることについて、木戸と話し合っていた。 皇太子は結局、軍服を着なかった。 ─── 〓勝手に独断と偏見〓 「昭和天皇独白録」の「勝利の見込みを失った。・・・早く独逸が破れてくれればと思った程である。」では1943年9月に於いて昭和天皇の認識が枢軸側敗勢だった事が示されている。 だが、其の後2年間戦争は継続し硫黄島や沖縄では国体護持等の為に天皇の赤子の命が求められる。 昭和天皇の優先順位は「天皇制」「自身」「期待」「家族」「日本」「国民」等が相互に関連し単純ではない、トップが戦争中に敗戦の準備を始めるのは当然、だが皇太子の件は感覚的には納得しずらい。 枢軸側の勝利を確信していれば皇太子を武官に任官させただろう、枢軸側の敗勢を考慮し子としての明仁の将来と天皇家の今後を考えて任官させなかったと推察。 昭和天皇は皇族内閣には日米戦が敗戦の可能性があるとして反対、皇族は統帥部のトップから開戦前に消えた、皇太子の武官任官に反対。 枢軸側の敗北を覚悟し敗北後の生き残りを模索、天皇の真意の一端を側近の者達は感じていたと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009.09.13 08:45:20
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