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国民と天皇と大日本帝国

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2009.12.06
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カテゴリ:大日本帝国興亡史
◇白馬事件/ウィキペディアよりの抜粋
 白馬事件とは、日本軍占領中のインドネシアで日本軍によりオランダ人女性に対して行われた監禁・XX事件のこと。
 「白馬」の由来は、白人を白いウマに擬えていた事から。慰安所の所在地から、別名スマラン事件。
 1944年2月、南方軍管轄の第16軍幹部候補生隊が、オランダ人女性35人を民間人抑留所からスマランにあった慰安所に強制連行し強制XXさせ・XXした容疑で、戦後、国際軍事裁判において(将官や兵站責任者の佐官などの高級将校を含む)当該軍人・軍属(請負業者)たちに有罪が宣告されている。
 ・・・
 1999年には女性のためのアジア平和国民基金が(白馬事件の裁判証言記録を含め)オランダ国立公文書館・アムステルダムの国立戦争資料研究所・オランダ外務省公文書室の資料を調査し「慰安婦」問題調査報告に発表した。
 これらの資料には、白馬事件以外にも日本軍による強制連行の様子や、ある程度自発的に慰安婦となったケース。憲兵隊が地位の乱用を行った事例や逆に、軍の強引な「志願者」徴募に対し憲兵隊が介入して女性を守った事例も述べられている。
───

◇「日本占領下インドネシアにおける慰安婦-オランダ公文書館調査報告-」(抜粋・纏め)-1
2. 慰安所の統制
 1942年3月8日オランダが日本に無条件降伏後、インドネシアは3つの軍政区域に分けられた。(陸軍第16軍-ジャワ、陸軍第25軍-スマトラとマレー半島、海軍南西方面艦隊-その他)

3. ジャワ
 1944年初頭、中部ジャワの複数の婦女子抑留所やスマラン市で、ヨーロッパ人及び印欧混血人の「婦人や少女」が、強制的に慰安婦として連行されるという事件が多発した、このような事件はジャカルタでは、長期にわたり起こっていた。
 オランダBC級戦犯裁判になったようなスマラン慰安所事件を含む中部ジャワやジャカルタの事例は、日本占領期ジャワ全体を通して見ると比較的希な出来事だった。
 陸軍第16軍兵站部責任者の証言によると、慰安所設置の許可は、慰安婦になる女性が志願者である事また日本語とマレー語で書かれた趣旨書に本人の署名がある事を満たしている事が条件。
 兵站将校が慰安所設置の許認可を持っていた。
 小規模な慰安所、バー、そして他の性的サービスを提供していた施設が比較的広範囲に存在していた。
 スラバヤ市内には何ヶ所、もの売春専用地区があったらしく、その地区が軍の設備に近接していることやその規模の大きさから、おそらく許可を得た慰安所で軍当局から厳しく監視されていたと思われる。
 バンドゥン、マゲラン、ソロ、マラン、スラバヤなどの都市に位置した何軒ものホテルが、慰安所として運営されていた。
 キリスト教徒のメナド人がスマランで所有していた、カロリナ・バーやレストラン数軒は、常連の日本人や中国人客のために慰安所にもなっていた。
 印欧混血人やヨーロッパ人が、周旋業やホテルの経営に関わっていたという資料もあったが、全体から見ると比較的少数の出来事のようだった。
 マランでは未婚の原住民の少女が、日本人将校の不道徳な使用目的で調達され、数軒のホテルに連れて行かれた。
 1943年7月頃には既にカリジャティ飛行場の慰安所が開設していた、少女達は50セントで日本兵を受け入れさせられ、病気になった者は、新しい少女に代えられた、施設には通常少女15人、日本人300人程度がいた。
 スラバヤ市内のバクミ通りにあった旧グランド・ホテルへ、将校や、准将、軍曹を運転していくように命令された。ここには、日本軍相手の慰安所があり、収容されていたのは全員が日本人の少女であった。
 もう一ヶ所の立ち入り禁止区域は、日本人陸軍将兵用の慰安所があった地域で、・・・、周囲は3メートル以上の高さの竹製の塀で囲われていた。ここでは、インドネシアのありとあらゆる人種の女性が慰安婦になっていた。また、陸軍のどのランクの人間もここに来ていた。
──HP:アジア女性基金デジタル記念館より


〓勝手に独断と偏見〓

 「慰安婦になる女性が志願者である事また日本語とマレー語で書かれた趣旨書に本人の署名がある事を満たしている事が条件」

 オランダ人女性の売春は侵攻以前にあった、侵攻後はオランダ人の生活環境が悪化、軍による明示・暗示的な強制等が推測される。

 不明確だが、慰安所は軍人用と一般用に別れ、経営は日本人・欧州人・印欧混血人・現地人等が営み、軍主導型と民間主導型に分かれていたようだ。





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最終更新日  2009.12.06 23:33:52
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