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国民と天皇と大日本帝国

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2010.01.17
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カテゴリ:大日本帝国興亡史
◇ノルマンディー上陸作戦(ウィキペディアよりの抜粋)
 ノルマンディー上陸作戦とは、第二次世界大戦中の1944年6月6日に行われたオーバーロード(大君主)作戦を指す(Operation Overlord)。ナチス・ドイツによって占領された西ヨーロッパへの侵攻作戦。最終的に、300万人近い兵員がドーバー海峡を渡ってフランス・コタンタン半島のノルマンディーに上陸した。史上最大の上陸作戦であり、作戦から60年が過ぎた現在までこれを超える規模の上陸作戦は行われていない。
 本作戦は夜間の落下傘部隊の降下から始まり、続いて上陸予定地への空襲と艦砲射撃、早朝からの上陸用舟艇による敵前上陸が行われた。上陸作戦に続くノルマンディー地方の制圧にはドイツ軍の必死の抵抗により二ヶ月以上要した。

 1941年のバルバロッサ作戦によるドイツ軍のソ連侵攻以来、ヨーロッパ本土でのドイツ軍勢力のほとんどがソ連に向けられていた。ソ連側は危機的な状況を緩和するために、イギリスやアメリカに対してヨーロッパに第二戦線を築くことを要請していた。
 イギリス軍は第一次世界大戦同様に正面からの攻撃を繰り返すのではなく、ヨーロッパを周囲から攻撃することを提案した。アメリカ側は前線の延長を望まなかったことと、イギリスの勢力拡大意図について心配したため、ドーバー海峡を渡っての上陸作戦を行うようイギリス側を説得した。

 1943年11月28日テヘラン会談において、アメリカの大統領フランクリン・ルーズヴェルト、イギリス首相ウィンストン・チャーチル、ヨシフ・スターリンは討議し、1944年の5月にはヨーロッパに「第二戦線」を開くことが正式に合意された。
───

◇「エルヴィーン・ロンメルがヒトラーに宛てたノルマンディ劣勢を伝える報告より」(抜粋・概要)
 ドイツB軍集団司令部 7月15日
 ノルマンディ戦線の状況は日々悪化の一途をたどり、いまや深刻な危機に瀕している。
 戦闘の激化、敵の装備や資材の豊かさ(とくに火砲と戦車)、戦闘地域上空から広範にわたる攻撃等により、多くの犠牲者を出し、師団の戦力は急速に減退しています。
 犠牲者は約9万7000人(将校約2360人を含む)、一日約2500人から3000人出ている、交代要員の数は約1万人で実際にこちらに到着しているのは約6000人となっている。
 武器の損失も多く、戦車は225両の損失に対し、これまでに17両しか届いていない。
 新たな部隊がノルマンディ前線に送り込まれることもないので、イギリス海峡の第一五軍の前線、南フランスの地中海前線は弱体化する一方。
 敵の状況は、毎日のように前線には新たな戦力と大量の武器が送り込まれている。
 我々の航空部隊をもってしても、その供給ルートを阻止することができない。
 各地の部隊は勇敢に戦っているが、力の釣り合いのとれない戦闘は終わりに近づきつつある。
 この状況から抜け出すための適切な判断が至急必要。
──「『ニューヨーク・タイムズ』が見た 第二次世界大戦(下)」p306~より


◇「細川日記(上・下) 昭和19年」よりの抜粋
 6月06日:今朝第二戦線開始せられたりと聞く。シュルプール-カレー間なりと。
 6月21日:第二戦線に就きては二様の見方あり、今日の橋頭堡を拡大するか、更にカレー地方、マルセイユ地方に新に上陸するかなり。而して今の橋頭堡は撃退せしめ得ず。飛行機(第二戦線方面)英米15000機、ドイツ2000機、7対1の割合なり。
 8月25日:ルーマニア枢軸離脱。米軍パリー2粁に迫る。
───

◇「木戸幸一日記(下) 昭和19年」よりの抜粋
 8月24日:松平官長より電話にて、ルーマニア、ソ連と休戦云々の報知あり、欧州情勢寒心に堪えず。重光外相参内、拝謁後来室、ルーマニア、ソ連休戦云々を中心に懇談す。
 8月31日:重光外相参内、独ソ和平打診、ルーマニアの休戦等につき奏上す。
───


〓勝手に独断と偏見〓

 日本の指導部による米国との講和実現の前提にドイツ勝利はなくなった、徹底抗戦論は各々の失敗の糊塗が含まれると推察。

 1944年6月4日:ローマ解放、8月25日:パリ解放、7月20日:ヒトラー暗殺未遂、6月15日には太平洋でサイパンの戦いが始まる。

 軍人の戦死者は英国や仏国より米国の方が多い、仕事熱心な米国、関係しない事も可能だった東西の戦争にどっぷり。

 米国から見ると日本・英国・独逸・ソ連・中国は似たようなもの米国の正義の発露は極端か。





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最終更新日  2010.01.17 09:19:54
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