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テーマ:大日本帝国と其の周辺(580)
カテゴリ:大日本帝国興亡史
・花岡事件は、1945年6月30日に秋田県の花岡鉱山で中国人労務者が蜂起し、日本人を殺害し、その後鎮圧された事件。戦後、過酷な労働環境について損害賠償請求裁判が提訴された。
政府は産業界の要請を受け、1942年11月27日に「国民動員計画」の「重筋労働部門」の労働力として中国人を内地移入させることを定めた「華人労務者内地移入に関する件」を閣議決定。 「一九四四年国家動員計画需要数」に中国人労務者3万人の動員計画が盛り込まれた。 鹿島組により1944年7月以降に現地移入した中国人は986人に上り、1945年6月までにうち137人が亡くなった。 彼らは過酷な労働条件に耐えきれず、1945年6月30日夜に、国民党将校耿諄の指揮のもと800人が蜂起し、日本人補導員4人などを殺害し逃亡を図った。 7月1日憲兵、警察、警防団の出動により獅子ヶ森に籠っていた多数の労働者も拷問などを受け弾圧(殺害)され、総計419人が死亡した。死体は10日間、放置されたあと、花岡鉱業所の朝鮮人たちの手で3つの大きな穴が掘られ埋めらた。 この後も中国人の悲惨な状況に変化は無く、7月に100人、8月に49人、9月に68人、10月に51人が死亡した。 ─(花岡事件/ウィキペディアよりの抜粋) 日本の支配階級は主張する「これらの中国人は決して俘虜でなく、自由人として募集されたものだ」 ・昭和20年4月現在の一人一日当たり平均賃金は(「一医師の報告 高橋実」より) 内地人男子:4円13銭、 朝鮮人:3円96銭、 中華人:3円48銭、 婦人労働者(一時は900名も使用されていた):1円94銭。 ── 〓勝手に独断と偏見〓 1945年6月頃の朝日新聞の現状認識と主張は、沖縄戦は「離れ島消耗戦」、「本土決戦、一億の肩に懸る 我に大陸作戦の利 挙国全戦力投入も可能」。 相手国に革命等のとんでもない状況が発生したり、隕石が大西洋に落下し連合国が戦争どころではなくなったり、日本が複数の原爆を完成させてアメリカ本土にでも投下できる可能性があるなら講和を主導的に行えるかもしれない。 制海権・制空権を担っている海軍にできるのは過大戦果(台湾沖航空戦など)を報告し、より戦局を悪化させること。 日本敗北を願う者からすると、戦争は終盤になりつつあるが沖縄のような戦いを本土で行なうと簡単には終わらないの感があったのではないか。 国体護持を全否定しそうなソ連の侵攻があれば日本は講和に向かうの感覚はあったのだろうか。 本土決戦に進むに於いて米国はソ連に頼り、英ソ中は米国の援助に頼って戦ってきた、米国の原爆実用化で米ソの関係は変化するが米ソの分裂により日本有利の状態を望むことは困難な状態だったと思う。 前回の資料「全員蜂起」の記述には前記の他に下記の内容の記述もある(大雑把な概要) ・鹿角タイムス主筆阿部真平:消防と警察に捕まって花輪警察署に4名連行されたが八路軍の幹部だという人に対し花岡鹿島組からきた男によって暴行がなされ息がとまり組の病院から医者を呼んで注射して息をふきかえした。 俘虜の人たちは大根やサツマイモなど空腹のため畠の中からむいて生のままでたべたそうだけれども、農民は同情して見て見ぬふりをした。 ・花輪町役場経済課に勤めている前田ヨシ(当時は花岡小学校に助教諭として勤めていた):花岡町共楽館前を通りかかると、・・・、炎天下でやせおとろえてまるでガイコツのようになっていた中国人に、座らせてその間に三角棒を通してぐるぐるまわしたり、革のむちでたたいたりして拷問しておった。 当時の現場には・・・多数見にきて黒山のような人の群れであった。 また、蜂起者の計画は、米軍俘虜収容所の監視日本軍を攻撃して武器を奪い米国俘虜を解放、同和鉱業花岡鉱業所関係の中国人・朝鮮人を解放し山にこもって抵抗する。 目的は、日本軍国主義に打撃をあたえ、真近にせまる日本の敗北の日まで抵抗する。 Eテレで2014年7月12日に再放送された「戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 第2回 鶴見俊輔と「思想の科学」」では、「花岡事件」について中山寮を出る際と思うが「日本人補導員4人」が中国人に殺されている。 「この(事件)後も中国人の悲惨な状況に変化は無く、7月に100人、8月に49人、9月に68人、10月に51人が死亡」、労働者は消耗品の感覚なのだろう。 では、戦場及び国内に於ける慰安婦はどうだったのだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014.09.27 06:52:24
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