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ラッコの映画生活

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2006.12.03
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カテゴリ:『デカローグ』
DEKALOG PIEC

DEKALOG 5_1.jpg DEKALOG 5_2.jpg


5『ある殺人に関する物語』
および長尺劇場版『殺人に関する短いフィルム』

(ネタバレ)
映画冒頭で、ネズミの死骸が水たまりに浮いている。そのネズミを殺したのは猫なのか?、ネズミ殺しをした猫が首を吊られて死んでいる。この2ショットが映画全体を要約している。ネズミのようなタクシー運転手が殺され、その犯人である青年が絞首刑になる。

DEKALOG 5_0.jpg

共同脚本家のピェシェヴィッチがある日キェシロフスキ監督に「モーゼ十戒を映画にしよう。」と提案。2人は最初、映画学校出たての若い監督に仕事を与えようと60分10本のテレビ映画の脚本を執筆。しかしシナリオが出来上がってみるとキェシロフスキは自分で作りたくなった。それがこの『デカローグ』シリーズ。監督自らが告白するように「エゴイスティックにも自分で監督したくなった」ことは、キェシロフスキ・ファンにとっては嬉しい結果だ。この作品がなかったら以後フランスで撮った『ふたりのベロニカ』も『トリコロール/3部作』もなかったかも知れない。テレビ局に話を持ち込むが得られた予算はやや不足だった。それでキェシロフスキは2本の劇場映画を安価に作るということで文化省から予算を獲得。その結果『5』と『6』は長尺劇場版も作られた。2本の劇場版の選択に関して、『5』、つまり『殺人に関する短いフィルム』は監督自らの希望、もう1本は文化省担当者に任せたらしい(『愛に関する短いフィルム』)。『5』は是非にも作品化したかったものだったのだろう。

あてどもなく寒々としたワルシャワの街を徘徊する19歳の青年ヤツェック。朝いつものように車を洗い、洗車が終わるのを待つと言った『デカローグ2』のアンジェイ・ドロタ夫婦を置いてきぼりに走り去るタクシー運転手ヴァルデック。弁護士になるための最終口答試問を受け合格、晴れて弁護士になるピョートル。3人は青年が殺人を犯すその日に、ワルシャワの街の同じ辺りですれ違っている。青年が殺人の凶器を準備する同じカフェで、同じとき何も知らずにピョートルは弁護士になれたことを恋人と喜びあっていた。そして運転手は青年に殺され、青年は死刑になり、最後に一人生き残るのは青年の弁護を担当したピョートル弁護士だけだ。

この3人の運命を決定したのは何なのか?。ヤツェックは生まれながらの殺人犯なのか?。ヴァルデックは生まれながらに意地悪な人間なのか?。ピョートルは生まれながらに善人なのか?。生まれ持ったDNA、生まれ落ちた時代や社会や家庭等の環境、些細な出来事から重大な出来事まで経験してきたことのすべて、そういったすべてが「ある人の現在」を作ったのではないか?。だとしたらどうして他者に他者のことが理解できるのか。断罪して合法な死刑という制度で社会から抹消してしまってもいいのか?。「過去は決して過去のものとはなり得ない。過去は常に現在と関わっているのである。」とキェシロフスキは言う。人はよくこう反論する。「同じような状況でも犯罪を犯す人も、犯さない人もいる。だから犯罪を犯す人は間違っている。」と。しかしそのときの状況は同じでも、それぞれの過去は一人一人すべて異なっているのだ。その人間の全過去があって、この状況に出会った。そしてその全過去に対する責人は本人だけのものではない。ならば同列に比較することなどできない。青年の殺人を肯定するというのではなく、「現に殺人を犯してしまった青年がいる」のだ。そして死刑制度の存在も、恐怖による犯罪の抑止にはならなかったのだ。

どちらの出来がどのということではなく、テーマが重いだけに、長い劇場板『殺人に関する短いフィルム』の方が、テーマに対する観客の思索をよりいっそう深くすると思います。

最後に監督の自伝からの引用です。「私がこの映画を撮ろうと考えたのは、すべて(死刑のこと)は、私の名で行われているからだ。なぜなら私はこの社会の一員であり、この国の国民であり、もしこの国で誰かが誰かの首に縄をかけ、足もとの板を抜けさせるているとしたら、それは私の名で行われているのだ。私はこの行為を拒否する。」「この映画は暴力を告発するものだ。私の考えでは、殺人を意志することは暴力の究極だ。死刑判決の実行も殺人を意志することの一つだ。」

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Last updated  2006.12.03 02:10:00
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