阿字観
覚鑁(かくばん)上人の著作の阿字観(阿は梵字)の中に目を閉じ阿字観するとあるまた上人の阿字観儀の著作があるこれは上人の御母儀にその方法を伝えた文章なのらしいのだがその中に閉目開目(めを閉じる、目を開ける)という記述がある目を閉じる そして目を開けるという動作を指導している。ただ阿字観の第一の注釈書である阿字観用心口訣があるこれは大師より口伝によりその高弟の実慧があらわしたとあるがそこには目は開けず閉じず半眼という記述になっている。閉じてはいないただこの成立年代はもう少し後ではないかとの研究もでている。ここから私の仮説なのだが、阿字観がピンと来ないのはその人がこの阿字の光を感じていないからだと考えられるこれは上座部(パオメソッド)の言う二ミッタが必要なのだと思う(マハシでは使っていない)そこの記述にはニミッタ"だけに集中する瞑想を毎日1時間続けることができるようになったら、心臓にある"意門"に2・3分だけ意識を向けます。そうするとそこに光がみえます。とあります。阿字観では身体の中にこの阿字があるのは、まさにこのことを言っているように思えます。実際光輪の形成に従って、心臓の付近にもそれがあることが感じられます。如意宝珠もおそらく同じ物ではないかと燃えます。つまりにみったの形成が無ければ、阿字観が光り輝くという記述(wikiより)その人がこの観想に熟達したならば、この「阿字」が心中より光を放って、あまねく三世十方法界の諸仏の浄土に届く。その際に、この光は瑜伽行者の頭頂から足先まで体中を巡ることになる。が理解出来ないはずでそれは閉目開目(めを閉じる、目を開ける)を行うと阿字が光るという現象が発生する。通常ではこれは外部には見えないのだが、この阿字の上で光るという現象が見えるはずで外部に引っ張り出すことが出来るように出来ているおそらく、にみったが形成できているとこの光は体中を巡るようになる。つまりこれこそ、仏像にある光輪である。前も書いたけど弘法大師もアーナーパーナを修習されていた記述がある。この固定化にはアーナーパーナーが必要になっている阿字観を残されたのも、これを知ってほしいと思い残されたのではないかと思えるのです。多くの人がこの光を観る能力を有している知らないだけで、