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カテゴリ:読書
『なぜ勉強するのか』 鈴木光司
これも「本が好き!」からいただきました. 『リング』も『らせん』も読んだことがないKentでも,この著者の名前くらいは知っている.この人が『なぜ勉強するのか』というKentの仕事の命題にも関わるようなタイトルで本を書いていると知り,興味を持ったのは確か. 正直な感想として,期待はずれであった. 「未来を良くするために勉強をする」 著者の主張には賛成する.Kent自身も,今自分がやっている勉強(研究・教育)は未来に繋がると信じている.Kentが今やっている勉強や研究は,Kentの学生や,そのまた影響を受ける人々を通じて将来になんらかの影響を及ぼすのだと,また,大学教員というのは及ぼすことができる職業だと思っているし,その責務があるとも思っている. ただ,そうしたことは,普通の人(勉強・研究や教育を職業としていない人)に取ってみれば,かならずしも自明なことではない.そういわれて「なるほど」と思う学生であれば,すでに勉強をしている学生だろうと思う.勉強すること自体が自明となっていて,その後付の意味として理解するのであればその通りなのだから.「未来のために勉強しなさい」というのは「来世で救済されるために祈りなさい」という宗教となんら変わらない.勉強は宗教ではない. Kentが本書に感じた違和感は,「人類が勉強(教育と置き換えても良い)をすることの意味」と「個々人が勉強することの意味」とを混同していることにあるのではないかと思う.教育は,人類が歴史の中で積み上げてきた英知を,将来の世代に伝え,さらに積み上げ,より良くしていくための営みである.教育がなければ,蓄積が起こらず,同じステップをなんども行き来しなければならなくなる.この教育の営みの中では,教育を受けている個々人は「将来を良くするために勉強」し,やがて自らの子孫・師弟に「将来を良くするために教育」するという構図が成立する. しかし,本書ではそれを「個々人が勉強するための意味」に置き換えていないだろうか? 個々人が勉強することに,そんな高尚な意味が必要だろうか? Kentを含め,研究者が論文を書いたり,研究費をもらうための申請書を書くときには,「私の研究はこんな意義がある」「私のプロジェクトが採択されれば,科学の将来にこんな展望が開ける」ということをつらつらと書き連ねる.これがなければ,論文として認められないし,研究費も獲得できない.しかし,なぜ「研究をするのか?」と問われれば,「楽しいから」と答える.自分の知的好奇心を満足させるために研究し,研究を深めるために勉強を続けている. 著者自身も大学時代の恩師から様々なことを学んだと記していて,その勉強が「新鮮な体験(P31)」「スリリング(P35)」であったと書いている.それではいけないのだろうか? どのタイミングで,どの分野に対して,どのような好奇心を,それぞれの個人が持つかはわからない.しかし,一旦好奇心(興味・関心・意欲)を持てば,勉強というのは自律的に進んでいく.その好奇心を持つ切掛けは,「お金を稼ぎたい」でもいいし「あの大学に入りたい」でも,もちろん「素敵な女性たちにモテモテだった太宰のようになりたい」でも構わないはずだ. さまざまな実体験や疑似体験の中から,いかにして好奇心を持つように教育をすることができるか,それは親や教師が考えていなければならないことだろうとも思う.そのことが,人類の将来をより良くすることに繋がるのだから. なぜ勉強するのか?
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Last updated
2007.03.05 11:15:33
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