社会人になってからず―――っと仕事で“若者”に関わってきた。
自分の子供がいないので、世の中の若い世代の“流行り”や“関心事”は仕事を通し、彼らから学ぶことが多い。
しかし時にはとても“不思議で理解しがたい”流行も。
今気になっているのは、『句点をつけない』文章がやけに目に
付く点だ。タイムリーにも最近色んなメディアで取り上げられ
ている。
ある記事によると。若者が文章に句点をつけなくなったのは、
2000年まで遡る。LINEは『文章に句点をつけない』のがマナー
らしいが、LINEの誕生は、2011年。つまりLINEの遣り取りの
心証関係なしに、若者は文章から『。』を排除していたのだ。
“句点を打たない理由”が、何度聞いても不可解だ。
文章の最後に丸があると、“冷たい”“怒っている”と感じるそうだ。え? なんで?? そもそも句読点は、文章を読みやすくするための配慮で打つのあって、読み手を威圧するための武器ではない。
それなのに、なぜ負のイメージを抱くのだろう?
『丸嫌い』の彼らの言葉を借りると、たとえば『モーニング娘。』は“怖い集団”になってしまう。若返りの進む現モー娘。のメンバーやそのファンは、どう感じているのだろう?
ちなみに。私のblogでの名前についてる『。』は、猫の首の鈴
みたいなもんで、誰かのマウントを取るためにあるわけではない。
あ! でもこうして誰にもblogが読まれてないのは、私の『。』
や長すぎる文章、それに加えて文面にちらばってる句読点が、
他者に嫌悪感や恐怖を与えているってことか💡 なるほど~♪
私は友達に誘われてもSNSの類いを避け続けてきたけれど。句読
点を打てば相手に嫌がられたり誤解を招いたりするなら、やはり
“自分向きではない”と確信した。
長年活字と向き合ってきた私にとっては、『、』も『。』も
“必要不可欠”だ。私の打つ句読点には、打つ位置や記号のひとつ
ひとつに意味や想いを篭めている。それはモチロン読み手を脅す
ために打つのではない。私の“感情”に少しのリズムを添えるため。
公私ともに活字に触れてきたから判るのは。
「名は体を表わす」のと同じで、文章の筆跡や言葉や文章内の記号
の選び方には、書き手の人間性や心情が色濃く表れる。
それゆえに私は、これからも自分の書く文章には堂々と句読点を
打っていきたい。私という人間をそこから湧き出る感情を、“誤解
のない”文章で読み手に伝えていけるよう。
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今日のやや長めのひとこと。
「電車の“ダイヤ”を“ダイヤル”と言い続けてる
ような人が、“TVの現場記者”だなんて💧😧」
❆❆余寒御見舞い申し上げます⛄