The Cruel War な夜
もう、日付が変わったけど、 取り敢えず、週末。 金曜日の夜だった。 休みなく働いている私は、 新しい同僚のニュージーランド人との会話とかで、 脳みそがかなり英語モードを取り戻してきた。 ふと、今日は金曜日、金曜日は土曜日の前の日、 明日は土曜日、土曜日は日曜日の前の日、 明後日は日曜日、日曜日は月曜日の前の日・・・ などと、英語で一人ごちているうちに、 ふとメロディーがついていつの間にかThe Cruel War の二番を 口ずさんでいた。。。 Tomorrow is Sunday, Monday is the day, That your Captain will call you, and you must obey. そうなると、もう、youtubeに走ってしまう。。。 いくつか見たyoutubeの投稿の中に、 ベトナム戦争の時の写真とかを使ったものがあった。 以前の私なら、そんなことは思わなかったと言うか、 想像できなかったんだけど、 最近、動画で、帰還したアメリカ兵が家族の前にサプライズで帰ってくるシーンを集めた ひたすらそればかりを集めた動画を見ていて、 ベトナム戦争からこっち、どれほどたくさんのアメリカ兵が、 戦死しただろうと思った。 ペリリューの戦闘が、記録された動画もあるらしいが、 ペリリュー島の戦闘では、島に居た日本人はほとんど玉砕したが、 ものすごい数のアメリカ兵が発狂していた。 The Cruel War を邦訳したタイトルは「悲惨な戦争」だった でも、悲惨は、なにかどこかが違うような気がする。 むごいとか、無残なとか、そんな言葉が私の中に浮かんでくる。 「悲惨な」は、客観的過ぎて、違う気がする。 むごいとかひどいとかもっと皮膚感覚のある言葉が、 ベトナム戦争の時とかも当てはまるように思えた。 米軍と共に戦っていたベトナム人は南ベトナムと呼ばれた地域の人たちで、 米軍を駆逐して独立を勝ち取った人たちは、 元は北ベトナムと呼ばれた地域の人たちだった。 私には、ベトナム人の知人がいて、彼女はいわゆるボートピープルだった。 今の若い人たちはこんな言葉を、もう知らないだろうが。。。 もう15年ほど前に、彼女の家で食事に招かれたことがある。 軽い昼ごはんだったが、彼女の育ての親は、年若い叔父さんで、 ベトナムに一時帰国してお嫁さんを連れて日本に戻ってきたところだった。 私の知人が北ベトナムの進攻によって逃げ出した難民だったのだから、 アメリカ側の南ベトナムの人だと言うことだ。 彼女の部屋には、クリスチャンらしい飾り付けがあった。 彼女は、阪神大震災で崩壊した神戸の教会の信者だった。 食事の時、彼女が何気なく言った言葉が忘れられない。 仏教徒は、北の人。 南の人は、クリスチャンが多くて、仏教徒は、北の人だと・・・ そんなことは、まだほんの幼児だった彼女が覚えているはずもないのに、 ずっとずっと子供の時から言い聞かされて育ったのだろう。。。 東西ドイツ・南北朝鮮・南北ベトナム・・・ 私の子供時代は、第二次大戦の敗戦から14年後にスタートした。 私は、昭和34年の生まれだから、たとえば、阪神淡路大震災から今日まで時間より、 原爆投下や、敗戦の日から私の生まれるまでの期間の方がずっと短い。 アメリカは、ずっと戦っていて、 常に戦死者がいて、戦死者の家族が新たに生まれて、 戦病者が生まれ、心を病む人が発生し続けている。 命の価値観の違う相手と戦うのは、ものすごい恐怖だと思う。 自爆テロなんて、今の日本人が聞いたら、ぞっとするけど、 暗殺されたテロ組織の指導者は、カミカゼに学んだとはっきり言っている。 櫻花も回天も、肉弾特攻も、万歳クリフも、何もかも、みんな忘れて、 肌にその記憶を残している人たちはどんどん死に絶えていく。 先の大戦で、というのが、もう70年になろうとしている今、 本当に「無残な戦争」を知っている人たちは、自民党の元議員でさえ、 今の日本の在り方に不安を口にする。 岸や佐藤、中曽根などは、安全な場所でのうのうと戦時を過ごしていたのだ。 一兵卒に過ぎなかった人たちは、戦場の狂気も、敗戦後の混乱も、 焼け焦げた死体の転がる大空襲後のむごたらしさも肌で記憶している。 災害時に自衛隊を頼るのは、その任務を負うのが自衛隊だからで、 自衛隊以外に専任の災害復興支援にあたる組織が無いからだ。 今、自衛隊に入っている人たちのどれほどが、実戦配備を想定しているだろうか。 夫が、息子が、父親が、任地から帰還した時の家族の驚喜する姿は、 その任務が死と隣り合わせであることを知っているからだ。 私は、これまで10年間、3年おきに、地元の農業高校生を通して、 300人規模での聞き取り調査を実施してきた。 戦中戦後の混乱期の食べ物を どうやって手に入れ、どう調理してどのくらい食べていたか。 祖父母・曽祖父母に聞いてもらってレポートしてもらっていた。 本来なら、今年はレポートの年だったが、断念した。 もう、そんな記憶を持つ人が、聞き取りできるほど残っていないからである。 敗戦時小学校6年生だった私の母でさえ、現在81歳。 記憶の継承は本当に難しい。 嗅覚と味覚、痛覚などの皮膚感覚は、記憶を再現して伝えることができない。 The Cruel War 無残で悲劇的な戦争を知らない日本の方が、 毎年戦死者が途切れないアメリカよりもずっと幸福だと思う。 ずっと幸福で居る努力をすべきだと思う。