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カテゴリ:三原市 石塔
竹原の「小早川墓地」の性格を考えるうえで、もう一箇所、紹介しておきたい場所があります。
それは、三原市にある米山寺(べいさんじ)に「小早川家墓所」です。 そこには、写真のように、それは見事な宝篋印塔が、なんと20基も立ち並んでいます。 竹原の「小早川墓地」に対し、こちらは、米山寺の「小早川家墓所」。 同じような名前で、混乱しますが、「小早川墓地」は、竹原の小早川家の墓地だと言われているところ、この「小早川家墓所」は、竹原の小早川家の本家筋にあたる、沼田(ぬた)の小早川家の正真正銘の墓所になります。 この米山寺は、鎌倉時代の嘉禎元年(1235年)、小早川茂平が小早川家の氏寺として不断念仏堂を創建したことにはじまります。 はじめは巨真山寺といい、中世を通じて沼田小早川家の団結を強めるシンボル的な寺院としての役割をはたしてきました。 歴代の住職の多くも、沼田の小早川家から出ており、小早川隆景は、父元就の一周忌をこの寺でおこなっています。 隆景自身も、この寺に埋葬されました。 ただし、いま墓所内にある「小早川平隆景墓」が、本当に隆景の墓としてよいか、このあたりははっきりしません。 そもそも、はじめからこのように宝篋印塔が整然と立ち並ぶ墓所がつくられていたわけではありません。 隆景のころは、境内をみおろすような良い場所に、宝篋印塔は群立していたのでしょう。 その後(おそらく江戸時代の米山寺の再興事業のなかで)、宝篋印塔のなかでも、大きなものや、質の良いものを集めて、現在のような姿に整備したものと考えられます。 したがって、多くの塔は、本来の組み合わせではありません。 また、墓というよりは、供養塔とみたほうがよいかもしれません。 宝篋印塔の年代は、14世紀前半から17世紀初頭のものになります。 その内訳は、14世紀5基、15世紀4基、16世紀以降11基とみています(1基を除き、年代は特徴からみた推定です)。 これほど多く立ち並ぶ場所は全国的にも珍しく、同じような場所は、滋賀県米原市柏原にある徳源院ぐらいしかありません。 こちらは、京極氏の歴代墓所で、18基の宝篋印塔が立ち並び、ここも壮観です。 米山寺の墓所には、塔身に、鎌倉時代末期の年号である「元応元年」(1319年)の銘をもつ宝篋印塔もあります(重要文化財に指定されています)。 また、墓所以外にも、境内周辺に15基の基礎を確認できますから、少なくとも江戸時代初期の米山寺には、35基の宝篋印塔が立ち並んでいたことになります。 このうち、墓所域に立つ宝篋印塔の基礎の大きさは、小さいものでも幅38.1センチあり、大きいものでは、69.8センチ(元応元年塔)にもおよびます。 細かい論証は略しますが、これまでの調査で、私たちは、40センチ前後以上の基礎をもつ宝篋印塔は、小早川家の当主に関わる塔だと考えています。 小早川家墓所の宝篋印塔も、38.1センチ幅の1基を除き、ほかはすべて、歴代当主にかかわる塔とみて、間違いないでしょう。 また、この一画以外にも、境内周辺には、40センチ以上の幅をもつ基礎が3基ありますが、これも小早川家当主に関わる塔とみてよいでしょう。 墓所を整備するときに、もれてしまったか、うまく組み合わずに、除けられたものなのでしょう。 なお、いま墓所にある宝篋印塔には、すべて「小早川平隆景墓」というように、名前を彫った石碑が立ちますが、ほとんどは人名と年代があいません。 したがって、これが○○のお墓なのかぁとは、思わないでください。 なかには、江戸初期にくだるとみられる宝篋印塔に、鎌倉時代の人名があてられているものもあります。 なお、米山寺の宝篋印塔の詳細については、舘鼻誠「安芸国小早川領の宝篋印塔の編年試案―米山寺の宝篋印塔を素材としてー」『荘園と村を歩く2』校倉書房(2004年)を参照してください。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005.06.19 18:40:47
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