「鈴木清一の作品と生涯」を読む
今日は、午前中は、テレビを見たり図書館へ行ったりし、午後は「鈴木清一の作品と生涯」を読んだ。この本は、鈴木清一という隠れた大洋画家の作品と生涯を子息の鈴木耕三氏がまとめ、2006年6月に出版したものである。耕三氏がウェブで5年ほど前から「画家・鈴木清一の世界」というホームページを立ち上げ、毎月1枚ずつ清一氏の洋画を解説付きで発表していることは知っていて愛読していた。本格的な絵が、無名のまま世を去った一画家の未発表の作品を、子息が世に残すべく発表しているくらいという認識しかなかった。しかし、今回この本を読んでみて驚いた。鈴木清一という画家は非常に偉大な画家だったのだ。同時に戦争に翻弄された不幸な画家だった。水戸に生れた彼は黒田清輝に師事、東京美術学校に進み洋画を専攻、26歳で帝展に初入選して以来12回連続で入選、順風万帆のスタートであった。1930年水戸から神戸に移ってから兵庫県美術家連盟の会員になり活躍。推されるままにそのトップに上り詰める。しかし戦争は美術界にも押し寄せ、美術連盟も大政翼賛会の傘下に入り戦争奨励が課せられる。清一氏は決して戦争を奨励したくはなかったが軍部に逆らうことはできなかった。戦後、GHQは大政翼賛会幹部に戦犯並の罪を着せ、清一氏は画壇から身を引くことになった。仕方なく教師として生計を立てようとしたのも束の間、大政翼賛会関係者の教職追放でようやく探し当てた教師の職を失う。その後、いろいろな絵画サークルの講師として細々と生計を立てるが、奥さんの内職が必須だった。その奥さんが身体をこわし1974年他界。絵画サークル「木曜会」の推薦で1978年神戸文化賞を受賞したことはせめてもの幸せだったが、翌年清一氏が逝去するとその後また忘れられた存在になってしまった。戦争の犠牲になって日本を捨てた画家として藤田嗣治が有名であるが、鈴木清一画伯もまた、彼以上に戦争の犠牲になり、名前すら忘れられようとしていたのである。神戸と言えば、小磯良平や田村孝之介の名前が浮ぶが、鈴木画伯は彼らより先輩の偉大な画家だったのだ。戦争さえなければ、戦後洋画界の重鎮として君臨したに違いない大画家だったろう。本書は、口絵に74点のカラー図版、本文中に120点のモノクロ図版を挿入した、作品集と伝記を兼ねたものとなっている。写真はきれいで、伝記は正確に丁寧に書かれている。著者の熱の籠った名文の筆致に引き込まれ、最後まで一気に読み進むことがでた。これだけの内容のものを書くには資料収集など事前調査も膨大で大変だったであろうし、それを整理し構成を考えるのも苦難だったことと思う。文中にちりばめられた清一画伯の文章、最後にまとめて紹介されている手記などから、自然を愛し、日本を愛し、芸術を愛した画伯の高潔な人格がよくわかる。「孤高の画家」とは正にぴったりの形容だ。最後のあたりでは、事実を淡々と綴っているだけなのに、ところどころ、感動のあまり、目頭が熱くなる場面もあった。著者の私見を入れないで書かれているからこそ、強く伝わって来るのかも知れない。清一画伯のありのままの姿を世に現わすとともに、美術界にも一石を投じた功績は非常に大きいと思う。このような業績を残された著者に心からお疲れさまといいたい。画像は本書のカバー。絵は《舞子の松》(1979),《自画像》(1928)不遇なる 天才画家や すいかずら帯には次のように書かれてある。小磯良平、田村孝之介らとともに戦前の神戸で活躍しながら、戦争の嵐に吹かれて自ら姿を消した逆境の画家いま、よみがえる”画家魂”その非凡なる才能、潔い一生帝展入選作を含む 絵画や図案約150点のほか、手紙、写真を満載戦前・戦中の兵庫画壇史もあきらかに 鈴木清一画伯は、戦時中に一本化された”兵庫県新美術連盟”の発足に際し、推されて同連盟常任委員長に就任した人である。もちろん、県画壇でゃすでに第一線で活躍中の著名な画家の一人だった。ところが、敗戦に合わせて連盟が解散した時から、画伯の名前は県のみでなく中央の画壇からもスッパリと消えてしまったのである。・・・・・ 埋もれかけようとしていた一人の(特異な状況下の)画家の伝記・作品集が新たに誕生したことに対し、心から敬意を表したい。同時に、これまで余り知られていなかった兵庫県美術界の一部が公に活字化され、空白だった一時期がうめられることになった点にも感謝したい。 美術評論家・伊藤 誠氏 「序文」より本書の購入先の例