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「ひとは自分が思っているほど、自分のために生きているわけではない」
平川克美 (中略)自分がここにあることの意味は他者から贈られる。そのことを身をもって知った経営者の作家は、「自己決定」「自己責任」といった概念の虚しさを思う。(後略) 6月25日付け朝日新聞「折々のことば」より しばらくブログを書けずにいました。最後に書いた日の翌日、父が天に召されました。お祈りいただいていました皆さま、本当にどうもありがとうございました。 亡くなる前日、病院に行ったら、経鼻胃管がなくなっていました。胃にたまったものを排出するための管。あー、すっきりしたね、良かったねと思った次の瞬間、もしかして…との思いがよぎりました。でも母も一緒にいて、看護師さんに確かめる勇気も出ず…。すっきりしたねーと父に話しかけたら、頷いていました。 そして父に、驚くほど強く手を握られました。酸素マスクを着けていて話すことはできなかったけれど、本当に強くギュッと、長い時間。 あー、だめだ、涙が出てくる💦 母が先に帰り、夕方、私が帰ろうとした時。今日はもう帰るね、また明日来るねと言っても反応しない父。いつもは必ず、頷くか、手を握り返すかするのに。 帰ってほしくなかったのかな…。 最期は、母と妹と一緒に看取ることができました。妹が駆け付けるまで待っていた父。病院の先生も看護師さん方も、最期まで最大限、手を尽くしてくださいました。心臓マッサージや薬で持ちこたえていた父の心臓…妹が病室に到着する数秒前から、急に心拍数が上がりました。 「お父さん、あの辺で見ていたんだね」と先生が廊下の天井を指しました。本当に、そうだったんでしょうね…。 家族で手を握り、話しかけ、顔を撫でる中で、父の心臓が止まりました。 最後の2週間は高熱が続いてしまいましたが、癌の痛みで苦しむことはないままでした。 痩せ細ってしまったけれど、穏やかな顔でした。 テーブルの上に置いてあった新聞の囲み記事が、ふと目に入りました。 「ひとは自分が思っているほど、自分のために生きているわけではない」 生きているだけで、人は知らず知らずのうちに贈ったり、贈られたり。そしてそれは、亡くなってからも続く。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016.06.26 02:36:35
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